【動画】アニメ版「雪を食べたいの巻」から考えるちびまる子ちゃんにおける語りの階層──「ちびまる子ちゃん」について語るときに僕の語ること(4・編集版)

 アニメ『ちびまる子ちゃん』第1期から「雪を食べたいの巻」を扱って『ちびまる子ちゃん』に内在する視線や語りがどのように構成されているのか、またその語りの構成がお話にどんな効果を与えているのか考えてみました。
 さくらももこの短編エッセイとした描かれた『雪を食べたい』ですが、これをアニメ『ちびまる子ちゃん』に移行するうえで施された編集が『ちびまる子ちゃん』の視点をより顕著に表すものとなっていることは見逃せません。
 詳細は動画をご覧いただければと思います。

なお、AIによる要約は以下のとおりです。

お土産の雪はどこへ消えたか──『ちびまる子ちゃん』「雪を食べたいの巻」における記憶と語りの構造

アニメ『ちびまる子ちゃん』の初期エピソード「雪を食べたいの巻」(1990年3月4日放送)は、さくらももこが『ちびまる子ちゃん』連載以前に描いた短編エッセイ漫画「雪を食べたい」(1986年『りぼん』掲載)を原作としている。この作品は、ちびまる子ちゃんの通時的なキャラクター設定(小学三年生)を越えて、幼稚園児だったころの「私=さくらももこ」の経験を語るものである。本稿では、アニメ版における再構成の手法に着目し、語りの構造とその感情的レイヤーの厚みに注目する。

原作とアニメ──語りの主体と視点の差異

原作「雪を食べたい」は、作者自身のエッセイ的漫画であり、一人称で語られる。静岡県清水市という雪のほとんど降らない土地で育った少女が、幼稚園の雪見遠足で初めて雪に触れ、その儚い感動と失敗(雪を母に持ち帰ろうとして溶かしてしまう)を描く。ここでは語り手・主人公・作者がほぼ一致しており、自己の記憶が直接語られている。

一方アニメでは、小学三年生の「まる子」が主人公であり、原作のエピソードは「過去の記憶」として挿入される。アニメ版の特徴的な点は、通常ナレーターを務めるキートン山田ではなく、まる子本人(TARAKO)の声で物語が語られる点である。つまり、まる子=語り手=主人公となり、アニメにおいても一人称の構造が一時的に回復されている。

階層化された記憶と“母のセリフ”の重層性

アニメは、現在のまる子(小三)と過去のまる子(幼稚園児)の出来事を交互に描く。冒頭、まる子は母から「また前みたいに雪、持ってきてよ」と言われる。これは単なる冗談のようでいて、過去の記憶──娘が持ち帰ろうとした雪を夫に食べられてしまい、泣き崩れた記憶──を踏まえた、母の側の感情の回帰として読める。

一方で、まる子はその記憶を忘れており、出発時にはイチゴ飴を忘れずに持参するが、雪を持ち帰る約束を忘れ、帰路でようやく「あっ」と思い出す。この「忘却」と「回帰」の非対称性が、アニメ版に独特の哀しさと厚みを与えている。

語りの構造とアイロニー

本来『ちびまる子ちゃん』は、さくらももこ自身の回想を核に据えた擬似的な”私小説”的構造をとっている。原作漫画では、語り手としての”さくらももこ”の視点がナレーションという形で挿入され、それが過去の”まる子”というキャラクターを媒介に描かれる。

ところがアニメでは、その語りは集団制作において中継され、ナレーションはキートン山田が担う。だがこのエピソードにおいては、まる子自身が語り手となることで、原作の語り構造が再演され、物語に強い内在性が生まれている。

と同時に、「母は変わった」とぼやく現在のまる子が、結局は雪を持ち帰ることすら忘れているというラストは、むしろ”変わってしまったのは娘のほうだ”というアイロニカルな視点を呼び込む。母の「また前みたいに」という何気ないひとことに込められた記憶の連なりが、視聴者には痛いほどに伝わる。

結語──忘却のドラマとしての「雪を食べたい」

『ちびまる子ちゃん』はしばしば「日常の可笑しみ」を描く作品と見なされがちだが、このエピソードは、記憶と語りの構造を意識的にずらしながら、「忘れること」「覚えていること」の意味を繊細に問うている。幼いころには一大事だった感情が、成長とともに消えてゆく。その過程を、母の静かなまなざしを通して描くこの一話は、むしろ“家族の記憶”の物語である。

冬の澄んだ空気のなかで見返すのにふさわしい、静かな傑作である。

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