以前 YouTube Liveで話したことのAIによる要約です。
『ちびまる子ちゃんと私の距離——写ること、語ること、歩かされる身体』
序章|「音が出れば永遠だ」:練習としての語りの開始
冒頭で「おしゃべりの練習をしていきましょう」と話者は言う。これは単なるライブの開始挨拶ではない。「話すこと」そのものが、常にどこか未完成であり、準備されないまま本番に突入するようなものであるという自己意識の発露だ。
語りは「練習」である。そして「練習」がそのまま「公開」されてしまう場——それがライブ配信であり、その危うい形式が、本トークの内容と密接に響き合っていく。
第1章|ランドマークタワーのイベントに対する違和感:「動線」の中に置かれる私
話者は横浜ランドマークタワーで開催された「ちびまる子ちゃん×クリスマス」コラボイベントに言及する。巨大なツリーや等身大パネルが設置され、施設内を巡ってQRコードを読み取ると特典がもらえるという企画だ。いわば、まる子の皮をかぶった消費導線システムである。
ここで話者は明確に語らないが、明らかな批評的直感が働いている。パネルは装飾ではない。むしろ「私の身体を移動させ、写真を撮らせ、買い物させる」ための制度装置である。
この構造は、展示を見に行く私の能動性を見せかけながら、実際には「歩かされる身体」「写らされる身体」へと私を変換していく。
第2章|写真を撮るとはどういうことか:「見る/見られる」の二重性と自撮りの倫理
ここから話題は「写真」へと展開する。話者が求めているのは「パネルを撮る」ことではなく、「パネルの隣に自分が写っている写真」である。それはつまり、他者と映り込むことで、自分の現在地を確認したいという静かな欲望の表現である。
だが、ここで問題になるのが「誰に撮ってもらうのか」という点である。他者に頼む行為は、身体的・感情的な敷居を越える必要がある。そこで登場するのが「自撮り棒」——撮影者と被写体を一人で引き受けるための道具である。
この装置によって、「写す/写される」は同一化され、語られなかった欲望が形になる。
だが話者はそこに**「哀愁」を感じる。なぜならそれは、「誰にも頼めなかった」という孤独の形式**であり、かつて誰かと共有されていた「撮影の時間」が、自閉的なものになってしまった証でもあるからだ。
第3章|「静岡へ行こうか?」:距離を稼ぐことでしか確かめられない情動
このような葛藤の果てに、話者は一つの仮の解決策を提示する。「ランドマークに行くのが気まずいなら、いっそ静岡のちびまる子ちゃんランドまで行ってしまえばいいのでは?」
この発想は、一見逃避に見えるが、むしろ逆である。話者は「移動距離」という具体的なコストをかけることで、「写ること」「そこに行くこと」の意味と強度を確保しようとしている。
足を運び、金を払い、数時間バスに揺られる——そうすることでようやく「私はそこに行った」「私は写った」と言えるようになるのだ。
しかし、そこで得られるのもまた「写真」——パネルとぬいぐるみと自分が並んだ画像でしかない。話者は「そこに写っている私」を「確かにそこにいた私」と認識するが、その欲望が自己照明のためにしか作用しなくなっていることへの疑念も抱いている。
第4章|「誰に撮られたいか」ではなく「誰にも撮られないこと」の羞恥
このパートでは、話者はさらに写真に潜む構造を逆照射する。たとえば「集合写真で目をつぶっていた人」が恥ずかしがるのはなぜか? それは、その「瞬間を記録した撮影者の責任」ではないのか?
この逆説的な問いは、単なる開き直りではない。「写真=事実の記録」ではなく、「写真=誰かの編集」であるという前提に立つとき、被写体にかかる羞恥は本来、作者(撮影者)の恣意性に還元されるべきだという思想が顔を出す。
つまり、写真に写るということは常に他者の視線の中に置かれることであり、その視線のあり方次第で、私は私であることに誇りを持つことも、羞恥を抱くこともある。
だからこそ、話者は「他者に撮られること」そのものが怖いし、それができないことを自撮り棒で代替するしかない。そしてその代替行為が、先に述べた「哀愁」に接続する。
第5章|語れないまる子:共有不能な私的読書体験
話者は、「ちびまる子ちゃんが好きだ」と他人に言いづらいという奇妙な感情を語る。それは、他者にとっての「まる子」が、日曜18時のテレビアニメで固定されてしまっているからだ。
話者が語りたいのはそういう「国民的アニメ」としてのまる子ではない。もっと、原作漫画に流れる内省や感情のすれ違い、ぎこちない会話、孤独な笑いに共鳴した「私的なまる子体験」である。
しかし、その「私的読書体験」は、他者と共有できない。話そうとすると、相手はすぐに「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「国民的ファミリー向けアニメ」に話をすり替える。そこに置き去りにされる語りたかったはずのまる子と、語ることに失敗した私がいる。
終章|「並ぶこと」の倫理と詩学
語りの最後に残されたのは、「ちびまる子ちゃんのパネルの横に並ぶ」という身振りだった。それは観光記念写真のように見えて、実は「私と彼女との距離を物質的に確認する」行為である。
その写真には、誰にも語れなかった「私のまる子」が写っている。そしてそれは誰にも語られないまま、画像ファイルとしてだけ残る。
このトーク全体は、写真論でもキャラクター論でもない。むしろ、見ること/見られること/語ること/語れないことが絡まり合う、ひとつの〈距離〉の実践だった。
そしてその〈距離〉とは、もしかすると、「誰かに語りたいのに、誰にも届かない」という現代の孤独の比喩そのものである。
追記|「自撮り棒」は、まる子と並ぶための詩的な腕である
結局、自撮り棒とは何だったのか?
それは、「他者に頼めない私」が「まる子と並ぶために生み出した、詩的で延長された腕」なのかもしれない。
語りたかったまる子。写りたかったまる子。歩かされながらも、自分で歩いたふりをしたまる子。
そのすべてが、「写ってしまった私」の背後で、黙ってうなずいているように思えた。