• 日記250710

    🌄 明け方の出来事:ゴキブリとの遭遇と寝苦しさ

    • 明け方、寝汗をひどくかき、覚醒と睡眠のあいだを意識するような寝苦しい状態で過ごしていた。
    • 指先にくすぐったい感触があり、一度は消えたものの、また細い何本かの糸のようなものが撫でるような感触が脳に伝わってきた。
    • 虚ろな頭で指を払うと、虫のイメージが浮かび、飛び起きて手を振り払う。
    • 電気をつけると、ゴキブリの気配を感じる。
    • 殺虫剤「ゴキブリワンプッシュプロ」を取り出し、本棚の裏などに噴射。
    • 床にはハッカ油スプレーを撒く。
    • ゴキジェットを手に「迎撃体制」を取っていると、天井から黒い小さなゴキブリが落下。
    • 弱々しく逃げ回る個体を視認し、ゴキジェットで処理。
    • 虫はすぐに動かなくなり、ティッシュで包んで袋に入れ、しっかり閉じてゴミ箱へ。
    • 「他にもいるかもしれない」と部屋の周囲を見て回るが、特に発見されず再び就寝。

    💤 日中の過ごし方:寝不足と外出

    • この日は先日土曜日の出勤の振替休日で特に予定はなかった。
    • 明け方のゴキブリとの戦いのため、寝不足状態に。
    • 日中はほとんど寝て過ごした。
    • 夕方、虫退治のグッズを買いにドラッグストアへ向かう。

    ☔ アクシデントと出来事の連鎖

    • ドラッグストアへ行く途中、突風に日傘が煽られ、骨が折れてしまい悲しい気持ちに。
      • 夜にゴキブリが出なければ、外出もせず日傘が壊れることもなかったかもしれない。
      • あるいは、午前中に届くはずだったヤマト便の配達が仕分けミスで遅れて午後にずれ込んだため、外出のタイミングが夕方になってしまった。
    • 配達されたのは、西川のオンラインストアで注文していた冷感式の敷きパッド。
      • 昨晩さっそく使用してみたが、寝心地はいまいち。
      • おそらく合成繊維の使用により肌に合っていないのではないか。
      • 冷感というより、汗でじっとりしているような印象があり、ひんやりではなくベトついた感じが不快だった。
      • 綿100%の敷きパッドを買えばよかったかもしれないと後悔。

    🍜 夜の出来事:夕食と読書

    • 夜ご飯には、今年初めてそうめんを食べた。
      • 「揖保乃糸」はやはりおいしい。
    • 最近読んでいる『ムーミン谷の彗星』を少し読み進めてから就寝。
      • 原作ムーミンを読むのは初めてだったが、ムーミンがけっこう口が悪いことを知り、驚く。
    • 京王線新宿駅で、「ムーミン展」が開催されているというポスターを見かけた。

    ご希望があれば、この一連の記述を日記文・散文詩・短い随想のかたちにも整えることが可能です。「偶然の連鎖」「寝苦しさの皮膚感覚」「虫とわたし」など、テーマ化することもできます。必要があればお申しつけください。

  • 日記250707

    🌅 朝の出来事:暑さと汗との格闘

    • 朝、目覚まし時計が鳴る前に首元の汗のびしょびしょ感で目が覚める。
    • 起床後すぐにシャワーを浴びる。
    • 出勤までの約2時間の間にまた大量に汗をかき、自宅を出る頃には肌着がびしょびしょ。
    • そのまま駅へ向かい、ホームのいつもの場所に立つ頃には、さらに汗が噴き出してくる。
      • タオルで拭いても拭いても頭頂部から水滴が落ちる。
      • 首の後ろを伝って背中に流れるが、背中まで拭けず諦める。
    • 電車内は冷房が効いており、汗を乾かすには助かるが、今度は寒くてつらい。

    🧯 出勤後の体調と業務の立ち上がり

    • 職場に着く頃には身体は疲労し、喉は渇き、軽度の熱中症のような感覚。
    • 土日で溜まっていたメールを処理。
    • 合間に午後からの打ち合わせ準備。
    • 体の回復を待ちながら作業するが、昼休憩を挟んでも完全には回復せず。
      • 休憩中は半分くらい寝ていた。
    • 午後、打ち合わせが終了。
    • 打ち合わせ中に届いたメールを再度処理。

    📨 メール処理とAI活用の可能性

    • メールソフトと生成AIを組み合わせれば、メール対応業務の効率化が可能かもしれないと感じる。
    • しかし、個人情報をどこまでCopilotなどのAIに送っていいのかがわからず不安。
      • 現状は、公開情報以外はイニシャルトークでAIに助言を求めるというやり方で対応している。

    📘『反逆の仕事論』とその反響

    • 『反逆の仕事論』に関する感想ツイートが著者の樋口恭介さんにリツイートされた。
    • 改めて、「知らねえ道をてめえの足でガンガン歩け」という本なのだと実感。
    • 本の中では、樋口さんが熊本の知らない山道を大雨の中ひたすら歩き、熊本空港まで徒歩で向かうエピソードが紹介されており、それが非常に感動的。
    • 人間にできることは、
      • 知らない道を歩く
      • 知らない場所へ行く
      • 知らない人と出会う
      • 知らない人を知る
      • そしてそのことによって「知らない私を知る」 ということなのかもしれない。

    🗳️ 参政党・選挙演説への関心と距離のとり方

    • 参政党があまりに話題になっているため、近所で演説があれば一度覗きに行ってみたい。
      • どんな人たちが集まっているのか知りたい。
      • ネットでは見えないことがあるかもしれないし、ないかもしれない。
    • 自分が支持する政党の演説を見に行っても、
      • 内容を聞いて「やっぱやめよう」と思うことはおそらくない。
      • それは結局、自分の考えを強化しに行っているに過ぎない。
    • 選挙期間中に様々な政党の演説が街中で行われる利点は、
      • 普段気にかけない、むしろ敵視すらしているような思想や主張を持つ人たちの声や姿を実際に見聞きできることではないか。
    • ただし、そこに集まるのは多くの場合、
      • 互いを強化し合う、自己反省の少ない熱量の高い支援者たちであり、
      • クラスターの中でも偏った層である可能性が高い。
    • 多くの人はそもそも政治に興味がない。
    • だからこそ、熱狂的な人々の動向を「伺う」スタンスを保ちたい。
      • なぜなら自分もまた、基本的には政治に興味がないし、熱狂的にもなりたくないという立場だから。

    ご希望に応じて、この整理をもとに日記形式への再構成や、特定テーマに絞った抜粋・再編集も可能です。お気軽にご指示ください。

  • 日記250706

    🥘 外食の記録と味覚の印象

    • 夜、近所の韓国料理居酒屋へ。
    • 1ヶ月前の初訪問時に「辛いものは好きか」と尋ねられ、次回来店時には「豆腐ステーキかポッサムがおすすめ」と言われていた。
    • 今回はその言葉に従い「豆腐ステーキ」を注文。
      • 青唐辛子が豆腐の上にのっていて、噛みしめると強烈な辛味が広がる。
      • 豆腐の甘みが唐辛子の辛さによって引き立てられ、ビールが進んだ。
      • タレも甘辛で、豆腐の甘さとは別種の甘さ、青唐の辛さとは違う辛さが重なり、「甘い・辛い」の感覚の多層性が感じられた。
    • 他にはトッポギを注文。もちもち食感を楽しみながら、マッコリを飲んだ。

    📖 読書と刺激:樋口恭介『反逆の仕事論』

    • 『反逆の仕事論』を読んだ。
    • 現在のAIは制約の中でのみ動作し、「はみ出す」ことができない。
    • 人間にできることは、その「はみ出す」力を発揮すること。
    • 「自分の足で知らない道をがんがん散歩せよ」といった勧めが書かれており、励まされた。

    🗳️ 参院選に関するネット上の観察と印象

    • 最近ネットでは参院選関連の話題が多く目に入る。
    • 石破茂氏が「現金を配る」と言ったり、「消費税減税はばらまきだ」と語ったりするなど、発言がちぐはぐな印象。
    • 参政党が支持を集めているという報道に対し、「左寄りっぽい人たち」(本当に左かは不明)が「参政党に票を入れるべきでない」と繰り返し訴える様子が見られる。
    • 一部では「チームみらい」が注目されており、
      • 個別の政策ではなく「合意形成の仕組みそのもの」を問い直すアプローチを掲げている。
      • 技術によって民意を可視化・反映する新しい形の民主主義を模索。
      • 全国的な知名度は低いが、ネット上では一定の支持がある。

    🤖 AIと書くこと・読むことをめぐる思索

    • ChatGPTなどLLMの普及により、生活や仕事が変わった人は多いだろう。
    • 技術の進化によって、人々が書く文字数は爆発的に増加していると考えられる。
      • かつてはタイプライターの登場で長文が書きやすくなり、
      • Twitterの普及により震災時には個別の手記が大量に発信されたように、
      • LLMは「自ら書かずとも、望んでいたかもしれないテキストが出力される」状況をもたらしている。
    • 書くことが容易になることで人々の利便性は高まるが、読むことの技術と負荷が浮き彫りに。

    📚 読むことの困難と倫理的側面

    • 書かれた文字は読まれることを必要とする。
      • 読まれない文字は「電力の無駄」である。
    • 書くことはテクノロジーの進化によって身体から解放されつつあるが、読むことはいまだに人間の肉体的労働に支えられている。
      • 肉体が疲弊していれば、読書は困難。
      • 人間の身体は有限であり、あらゆる文字を読むことは不可能。
    • 震災時に大量に書かれた手記も、読む人がいなければ意味をなさない。
      • 私的な関係であれば読むかもしれないが、公的に展示されたものは「無数の中の1つ」として処理されがち。
      • 1人の生の尊さが、並列化されることで固有性を失う。
    • 「読むことを問う」展示やワークショップを見かけたことがある。
      • チームみらいの「ブロードリスニング」などは、「AIを用いた読むことの技術」の一例。
      • 提出された大量の意見を統計処理し、傾向や逸脱を抽出することで読むことを支援する。

    🔍 読むことの技術とAIの活用

    • LLMを活用して本を読むと、わからないことをその場で尋ねられ、学習効果が高まるという報告もある。
    • とはいえ、「読むこと」は「書くこと」ほど進化していない。
    • 多くの人は「自分にとって理解可能な文章」しか読まないのではないか。
    • 意味が取りづらい文章に対して、圧力(権威性)や関係性がないと読み続けられない。
    • 読もうとすること自体に訓練が必要だが、そのための労力や覚悟は現代では得難い。
    • 読むことの負荷を引き受ける誠実さは、
      • 「誰が書いたか」
      • 「なぜ向き合うか」 といった文脈によって初めて湧き上がる。
    • 無数にある匿名的な手記に対して、その誠実さを発揮できるかどうかは疑問。

    🩰 読むことと身体性:アルトーと土方巽の例

    • 「読むこと」と「肉体の変容」を考えるときに思い出すのは、
      • アントナン・アルトー:
        • 「残酷演劇」を唱え、戯曲が役者の肉体に及ぼす影響を問題化。
        • 「強いられるものはすべて残酷である」というテーゼを掲げた。
      • 土方巽:
        • 舞踏の記録として「舞踏譜」を残した。
        • 土方のテキストは比喩に満ち、意味をとらえにくく、読了が困難。
        • 彼の言葉は、「読むこと」「見ること」の技術を問い直す重要な素材となる。

  • 「ちびまる子ちゃん」について語るときに僕の語ること2


    以前 YouTube Liveで話したことのAIによる要約です。

    『ちびまる子ちゃんと私の距離——写ること、語ること、歩かされる身体』

    序章|「音が出れば永遠だ」:練習としての語りの開始

    冒頭で「おしゃべりの練習をしていきましょう」と話者は言う。これは単なるライブの開始挨拶ではない。「話すこと」そのものが、常にどこか未完成であり、準備されないまま本番に突入するようなものであるという自己意識の発露だ。

    語りは「練習」である。そして「練習」がそのまま「公開」されてしまう場——それがライブ配信であり、その危うい形式が、本トークの内容と密接に響き合っていく。


    第1章|ランドマークタワーのイベントに対する違和感:「動線」の中に置かれる私

    話者は横浜ランドマークタワーで開催された「ちびまる子ちゃん×クリスマス」コラボイベントに言及する。巨大なツリーや等身大パネルが設置され、施設内を巡ってQRコードを読み取ると特典がもらえるという企画だ。いわば、まる子の皮をかぶった消費導線システムである。

    ここで話者は明確に語らないが、明らかな批評的直感が働いている。パネルは装飾ではない。むしろ「私の身体を移動させ、写真を撮らせ、買い物させる」ための制度装置である。
    この構造は、展示を見に行く私の能動性を見せかけながら、実際には「歩かされる身体」「写らされる身体」へと私を変換していく。


    第2章|写真を撮るとはどういうことか:「見る/見られる」の二重性と自撮りの倫理

    ここから話題は「写真」へと展開する。話者が求めているのは「パネルを撮る」ことではなく、「パネルの隣に自分が写っている写真」である。それはつまり、他者と映り込むことで、自分の現在地を確認したいという静かな欲望の表現である。

    だが、ここで問題になるのが「誰に撮ってもらうのか」という点である。他者に頼む行為は、身体的・感情的な敷居を越える必要がある。そこで登場するのが「自撮り棒」——撮影者と被写体を一人で引き受けるための道具である。

    この装置によって、「写す/写される」は同一化され、語られなかった欲望が形になる。
    だが話者はそこに**「哀愁」を感じる。なぜならそれは、「誰にも頼めなかった」という孤独の形式**であり、かつて誰かと共有されていた「撮影の時間」が、自閉的なものになってしまった証でもあるからだ。


    第3章|「静岡へ行こうか?」:距離を稼ぐことでしか確かめられない情動

    このような葛藤の果てに、話者は一つの仮の解決策を提示する。「ランドマークに行くのが気まずいなら、いっそ静岡のちびまる子ちゃんランドまで行ってしまえばいいのでは?」

    この発想は、一見逃避に見えるが、むしろ逆である。話者は「移動距離」という具体的なコストをかけることで、「写ること」「そこに行くこと」の意味と強度を確保しようとしている
    足を運び、金を払い、数時間バスに揺られる——そうすることでようやく「私はそこに行った」「私は写った」と言えるようになるのだ。

    しかし、そこで得られるのもまた「写真」——パネルとぬいぐるみと自分が並んだ画像でしかない。話者は「そこに写っている私」を「確かにそこにいた私」と認識するが、その欲望が自己照明のためにしか作用しなくなっていることへの疑念も抱いている。


    第4章|「誰に撮られたいか」ではなく「誰にも撮られないこと」の羞恥

    このパートでは、話者はさらに写真に潜む構造を逆照射する。たとえば「集合写真で目をつぶっていた人」が恥ずかしがるのはなぜか? それは、その「瞬間を記録した撮影者の責任」ではないのか?

    この逆説的な問いは、単なる開き直りではない。「写真=事実の記録」ではなく、「写真=誰かの編集」であるという前提に立つとき、被写体にかかる羞恥は本来、作者(撮影者)の恣意性に還元されるべきだという思想が顔を出す。

    つまり、写真に写るということは常に他者の視線の中に置かれることであり、その視線のあり方次第で、私は私であることに誇りを持つことも、羞恥を抱くこともある。
    だからこそ、話者は「他者に撮られること」そのものが怖いし、それができないことを自撮り棒で代替するしかない。そしてその代替行為が、先に述べた「哀愁」に接続する。


    第5章|語れないまる子:共有不能な私的読書体験

    話者は、「ちびまる子ちゃんが好きだ」と他人に言いづらいという奇妙な感情を語る。それは、他者にとっての「まる子」が、日曜18時のテレビアニメで固定されてしまっているからだ。

    話者が語りたいのはそういう「国民的アニメ」としてのまる子ではない。もっと、原作漫画に流れる内省や感情のすれ違い、ぎこちない会話、孤独な笑いに共鳴した「私的なまる子体験」である。

    しかし、その「私的読書体験」は、他者と共有できない。話そうとすると、相手はすぐに「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「国民的ファミリー向けアニメ」に話をすり替える。そこに置き去りにされる語りたかったはずのまる子と、語ることに失敗した私がいる。


    終章|「並ぶこと」の倫理と詩学

    語りの最後に残されたのは、「ちびまる子ちゃんのパネルの横に並ぶ」という身振りだった。それは観光記念写真のように見えて、実は「私と彼女との距離を物質的に確認する」行為である。

    その写真には、誰にも語れなかった「私のまる子」が写っている。そしてそれは誰にも語られないまま、画像ファイルとしてだけ残る。

    このトーク全体は、写真論でもキャラクター論でもない。むしろ、見ること/見られること/語ること/語れないことが絡まり合う、ひとつの〈距離〉の実践だった。
    そしてその〈距離〉とは、もしかすると、「誰かに語りたいのに、誰にも届かない」という現代の孤独の比喩そのものである。


    追記|「自撮り棒」は、まる子と並ぶための詩的な腕である

    結局、自撮り棒とは何だったのか?
    それは、「他者に頼めない私」が「まる子と並ぶために生み出した、詩的で延長された腕」なのかもしれない。
    語りたかったまる子。写りたかったまる子。歩かされながらも、自分で歩いたふりをしたまる子。

    そのすべてが、「写ってしまった私」の背後で、黙ってうなずいているように思えた。

  • 「ちびまる子ちゃん」について語るときに僕の語ること1


    以前にYouTube Liveで配信しながらひとりで壁に向かってしゃべった内容をAIに要約させました。

    🟡【配信冒頭〜導入部】

    • 話者は久々の配信で声が出にくいと述べる。「人と話す機会がない」「2週間ぶりに声を出した」など、話すこと自体に感覚を取り戻すまでのぎこちなさが冒頭の雑談に滲む。
    • 最近「ちびまる子ちゃん」に夢中になっていること、それを人に心配されたこともあって、「ちゃんとやってますよ」というアピールも兼ねて配信を再開したという経緯が語られる。

    🟡【読書のきっかけと経過】

    • 約3週間前にちびまる子ちゃんの原作コミックスを読み始め、1巻〜17巻まで読了済み。アニメは以前から知っていたが、漫画を体系的に読むのは初めて。
    • 読書の進捗や感想はInstagramのストーリーで逐次記録しており、フォローしていればその思考の流れも追えるとのこと。
    • ちびまる子ちゃんを「どのように読むか」はまだ明確には決まっていないが、読書を通じて感じたこと、作品内での変化に着目して語っていきたいと述べる。

    🟡【原作初期と後期の構造的な違い】

    📘前半(1巻〜11巻程度)

    • 登場人物は家族と一部の同級生(たまちゃん、花輪くん、丸尾くん、はまじくん程度)に限られ、話の中心は「出来事」や「まる子の感情の揺れ」にある。
    • 同級生キャラの数も少なく、エピソードごとの登場人数も限られている。
    • キャラの記号性は弱く、現実の「クラスメートあるある」に近い印象。
    • その分まる子自身の視点や反応、情緒が際立ち、素朴で詩的な感覚が強い。

    📗後半(12巻以降〜)

    • 登場人物が急増し、それぞれが「属性キャラ」として確立される(例:野口さん=不気味、藤木=卑怯など)。
    • 一話完結の中で「このキャラが出てくればこうなる」といったパターン的展開が増え、キャラ同士の組み合わせで話を進める構造に変化。
    • これは現在のアニメ版の印象とも重なりやすい。
    • 絵柄も変化し、後半はトーンや影が多用され、演出が“濃く”なる。
    • この変化を話者は「キャラ足し算構造」と呼び、やや飽きがくると評している。

    🟡【キャラクターの記号化と作品構造の変化】

    • 後期に登場するキャラの多くは強いキャラ付けをされており、再登場時も一定のギャグやノリが繰り返される。
    • 例:藤木は「卑怯」キャラとして「卑怯だからしょうがない」とまで言われ、ギャグパターン化される。
    • ストーリーは「何が起こるか」より「誰が出るか」に依存する傾向が強まり、出来事の起伏よりキャラ消費が中心となる。
    • 話者はこの構造にやや疑問を持ちつつも、「前半の感情中心の話の方が好み」と言明。

    🟡【映画『ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』の視聴と批判的考察】

    • 2015年公開の劇場版を視聴したことが、「まる子」熱再燃のきっかけ。
    • 内容は「日本にホームステイに来た外国の小学生たちがまる子たちと交流する」というもの。
    • 記号化された「外国人キャラ」が使われ、「日本の良さ」や「日本人の優しさ」を引き出すための装置として機能している点を批判。
    • いわゆる「日本すごい系」テレビ番組と構造的に類似しており、ナショナリズム的で空疎な表現が目立つとする。
    • しかし一方で、ラストの別れのシーンでは「感情的に泣けてしまう」矛盾も語られ、そこに作品の「猟奇性」(=理性では評価しきれない身体反応)があると分析。

    🟡【「外国」「外部」としての装置的機能】

    • 外国や外国人キャラは、「別れ」を描くための装置として登場することが多い。
    • 例として「まる子、南の島へ行く」回を紹介。まる子が旅先で出会った現地の少女プサディと親しくなるが、帰国時に別れが訪れる。
    • この「一時的な親しみと別れ」の構造は、物語を感傷的にし、特別な印象を与える装置として機能。
    • 外国というのは、リアルな文化表現ではなく、内面を照らし出すための「観念」として用いられている。

    🟡【今後の展望】

    • 現在、各話の登場人物や掲載時期などをエクセル的に整理し、アニメや原作の時期的対応関係、キャラ登場頻度などを可視化しようとしているが、まだ初期段階。
    • 将来的には、こうしたデータや分析を通して「ちびまる子ちゃん史論」を構築していきたいと考えている。
    • そのためにも、アイデアとエビデンスを両輪にしつつ、考察を深めていく意欲が語られる。

    📝全体の要点(要約の要約)

    ちびまる子ちゃんの原作を通読した話者は、前期の素朴で情感的な描写と、後期のキャラ主導の構造化された物語の違いに注目する。後期はキャラが「記号化」され、再登場時のギャグ構造が目立つが、前期ではまる子自身の揺れが中心に据えられ、感情の自然な動きが描かれていた。また、「外国」や「外部」の描写は、異文化理解ではなく別れや感傷を引き起こす装置として機能していることを指摘。今後は、作品の構造分析を進め、ちびまる子ちゃんを一つの「資料」として深く読み解く試みに着手していく意向である。

  • 日記250424

    帰宅直後から左脚がかゆい。足首からすねにかけて4箇所ほど蚊に刺されたようで、とくに足首のそれはかなり腫れている。どこで刺されたのかはわからないが、靴下と靴を履いて街中をとことこ歩いている状況で刺されることもそうはないだろうし、帰宅してから刺されたのだろう。とすると自宅内にはいまなお蚊が潜んでいることになるが、それらしい姿が見当たらない。椅子にもたれて干からびたからだをだらけていると、蚊に刺された左脚どころか蚊に刺されてもいない右脚や右腕や左胸や首まわりや背中などなどにもかゆみがあらわれてくる。爪を立ててからだじゅうをかきむしりたいおもいをこらえ、かゆみに生じる部分に肌着をすりすりする。こちらをすりすりしているとつぎはあちらがかゆくなり、あちらをすりすりしているとついさっきすりすりしたばかりのこちらがまたかゆくなる。肌には赤いぽつぽつが出ている。むかしからからだじゅうの肌にたびたび赤いぽつぽつが出る。夏場は特に出るから汗か何かが原因なのかもしれないが、べつに冬でも出るときは出る。そのくせ背中はおおきな白斑が出る。ここしばらく赤いぽつぽつもおおきな白斑もあまり目立ってあらわれないな、シャワー後にからだに塗るクリームをキュレルに変えたのがよかったのかなとかおもっていたが、あれやこれやで抑えこんだところでなにかの拍子に異常は噴出するらしい。あるいは赤いぽつぽつがあるほうが正常であって、無理に抑えこむのもよくないのかもしれない。何にとってよくないのかはしらないが、肌にも赤くなりたいときくらいある。かゆいからさっさと寝る。今週は朝いつもの時間に起きられていない。慢性的な睡眠不足が深刻な睡眠不足を呼び寄せている。眠りの質を高めるために軽く運動をして、そのせいでひどくつかれて日中の眠気が増し、ぐったりしたからだでぐったりと寝て、ぐったりしたまま朝を迎えたりする。休みをとろうかと数分迷ったあとに打ち合わせの予定を思い出して仕方なく起床する。夢のなかで金を稼ぎたいが、それより夢のなかの自由が守られているほうが大事だろうから仕方なく目を覚ます。終わらない孤独の夢みたいな日々を過ごし、毎晩数時間だけ浸る眠りのなかで生き生きとする。夢のなかなら肌もかゆくない。

  • 【告知】第2回ラブレターについて語らう茶話会を開催します

    参加申込みはこちらから

    開催概要:

    2025年4月5日に「第2回ラブレターについて語らう茶話会」を開催します。
    愛を書こうとすること、愛を書いて伝えようとすること、書かれた愛を受け取ること、書かれた愛を受け取ってしまうこと、あるいは他人に宛てられた愛を誤って受け取ってしまうこと……テキストに重きがおかれた二者関係においてどのようなコミュニケーションが生成されるのか。もしくはそのような二者関係がいまどのような状況におかれているのか。そんなぼんやりとしたあれやこれやを念頭におきつつ「ラブレター」から連想したことを話し合いながら、ほがらかとお茶をすする会、ということになっています。

    2024年10月に行った初回の記録は別ページにてまとめておりますのでご参考ください。

    【議事録】第1回ラブレターについて語らう茶話会

    第1回では付箋を活用したブレストを起点として、まずは論点を出し合うことに主な重きが置かれました。
    第2回では少し趣を変えて、この会で行う議論自体を参加者間での制作的(ラブレター的?)コミュニケーションの試行の場にしたいとおもいます。
    そのための手法として2025年1月に行った「マルグリッド・デュラス『ヴィオルヌの犯罪』読書会」でも取り入れた諸々を流用しながら、前半は参加者間でのコミュニケーションの回路を開くことに時間を割きます。(当該読書会の次第はこちら。また、参加いただいたかたが感想をツイートしてくれています。「ヴィオルヌの犯罪 読書会」でツイート検索すると出てきます)
    後半からはベタにラブレターについての議論を行います。「ラブレター」をとっかかりに前半の実践も活かしながらみなで話し合い、いまわたしたちがある個人との関わりに際して可能なことを探っていければとおもいます。

    ゆるふわにおもわせて過剰にコミュニケーションを強いる、意外とハードな内容になるかもしれませんが、ご関心のあるかたはぜひご参加ください。

    日時:

    2025年4月19日(土)

    2025年4月5日(土)
    ※19日は出張と被っていたため変更しました。

    14時30分から18時30分まで
    (入室開始は14時00分から)

    場所:

    千代田区内貸し会議室(九段下駅または神保町駅から徒歩数分)
    ※申込者には別途詳細をお伝えいたします。

    参加費:

    1,000円
    (スペース代に充てさせていただきます。)

    定員:

    6名

    お申し込み:
    Googleフォームからご登録ください。

    当日の進行(構想中):
    14:30 イントロとして武藤が当日のプログラムを説明します
    14:50 参加者同士で体や言葉を使いながらなんかいろいろやります
    16:00 みんなでいい感じに話します。おおまかな方向性は※部分に記載
    18:30 いい感じの話を終わり、みんなでお片づけします
    19:00 完全撤収

    ※まだなんにもアイデアがないので全然ちがう流れになるかもしれません。4時間って長くね?という気配もあるので短くするかもしれません。

    ※過去に行った『ミレナへの手紙』読書会の配布資料が話し合いの叩き台となりそうなので一部を公開いたします。当日行う話し合いの方向性を掴んでいただく参考になると思います。また、読書会での議論をベースに作成したアフターテキストは本サイト内で公開されておりますのでこちらもご参考いただけます。(2025/3/8追記)
    【抜粋版】配布資料
    アフターテキスト

    こんなひとにおすすめ:

    • ラブやロマンスに思い入れのあるかた
    • 胸いっぱいに愛をあふれさせたいかた
    • 内省的だけどコミュニケーションへの熱望があるかた
    • 魂で会話したいかた

    留意事項:

    • 会場は飲食可なのでお茶とかお茶菓子とか用意します。軽くつまめるお菓子類の持ち込み歓迎。ただしアルコールは厳禁です。へんに手の込んだものとかも場にそぐわないのでお控えください。
    • 会場内は禁煙です。喫煙される方はお近くの喫煙所をご利用ください。
    • 上記ほか、会場で定められた規則やルールは厳守にご協力ください。
    • プログラムの都合上、聴き専のような参加はできません。また、他者への介入を強いるような内容も想定されるため、心理的に他人に侵入されたくないかたの参加はお勧めしません。ぎゃくに、容赦なく他者の心理等に踏み込むような暴力的なかたには退席を求める場合があります。節度と配慮を持った参加をお願いします
    • 軽くではありますがからだを動かすプログラムとなります。動きやすい服装、汚れてもよい服装でお越しください。土足で入る会議室の地べたに腰を下ろすくらいは要求する可能性があります。(3/20追記)
    • ペアワークやグループワークを行う可能性が高く、段階を踏んだプログラムを組む予定なので、開始時刻に遅刻するとたぶんいろいろ台無しになります。遅刻される場合はご了承ください。(冒頭にイントロを設けているのは遅刻者受け入れ用のバッファの意味もあります。)
    • お申し込みに際していただいた個人情報は本会の実施に際してのみ利用いたします。
    • メールアドレスや本名の申請に抵抗がある方はSNSのDM等から参加希望をお知らせください。
    • 本会で発された言動は、今後「ラブレター研究会(仮)」の活動において何らかの参考にされる可能性があります。

    主催:
    ラブレター研究会(仮) 担当:武藤
    ※お問い合わせは以下のいずれかからお願いします。
    mail: azuki7.08あっとgmail.com
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    最新の投稿

  • 【議事録】第1回ラブレターについて語らう茶話会

    開催日時

    2024年10月19日(土)
    15時30分から18時00分まで

    会場

    府中市内貸しスペース

    参加者数

    4名

    飲んだお茶

    要約

    第1回「ラブレターについて語らう茶話会」では、ラブレターの伝達手段や愛の表現、コミュニケーションのあり方について議論が交わされた。ラブレターは、二者間の閉じた関係性の中で暗号化され、時に第三者の介入によって誤配や暴力的な作用を生む。特に、ラブレターが書き手のナルシシズムに基づく場合と、読み手によってラブレター化する場合があることが指摘された。

    また、愛の持続可能性(サステナビリティ)として、二者の関係が固定化せず、変容し続けることの必要性が論じられた。加えて、特定個人に宛てられたメッセージが受け手に「私を見ている」という実感を与えなければ、ラブレターは成立しないという見解も示された。

    さらに、「ラブレタリティ」として、意図せず解釈される愛のメッセージや唐突に訪れる手紙の暴力性についても議論が展開された。こうしたテーマを通じて、ラブレターが単なる手紙以上の「関係性の生成装置」としての可能性を持つことが浮き彫りになった。

    主な論点

    二人でいることの孤独について

    • わたしとあなたという単位に閉じた共同体において、言語活動はどのような発達を見せるのか。
    • 二者間で交わされるうちに過熱化する文体。
      • ふたりで行われる言語ゲームとしてのラブレター
      • ラブレター観にも種類がある。
        • ポエジーにあふれた手紙。
        • ハートマークに名前だけ書いた手紙
        • アニエス・ヴァルダ『幸福』
      • ゆえに第三者に誤配されたときに揶揄や冷やかしの対象になる。
      • 二者間の信頼のもとで書かれ、届けられる。
      • 暗号化が図られる。あるいは暗号化の意図がなくとも、二者間で発達した言語自体が暗号化する。
      • 例:おじさん構文
        • おじさん構文はおじさん的共同体の言語クラウドに接続してしまっている。
        • おじさんはなぜ・どうして・どのタイミングでおじさん構文の言語クラウドに同期するのか。
        • ローカルな言語を生成していたつもりがいつのまにか既存のローカルな言語に同期してしまうこと。
        • 逸脱も吸収してしまう大きな共同体の引力。
          • ひとを排除しないやさしさ。
          • 非常時における国家への動員。
    • 一者にとどまるうちでも相手への思いが募っていく過程で文体は過熱化する。
      • 過熱化した内なる感情の発露として、最初のラブレターは書かれる。
      • ラブレターの起点はナルシシズムに基づく。
        • ナルシシズムからはじめられたラブレターが二者間のやりとりに転じる。
        • 二者間での往還を重ねる過程で、私は私を喪失し、私とあなたを束ねるひとつの主体になる。
      • もしくは、ラブレターは読まなくともそれが届けられるという事実を持って愛が伝わるのでは。
      • 手紙に書かれる言葉はほんとうに重視されるのか。
      • 「あなたを愛している」を例とする誰でも利用可能な定型文で充足する。
        • 言語は複製可能性に依拠して運用される。
        • 誰でも利用可能な定型文が効果を発揮するためには二者間に閉じる必要がある?
        • そのテキストが意味するとおりの感情がそのままに伝達されること。

    多数に向けられた発されたメッセージを自らに向けられたものとして受け取ってしまうこと

    • 「このひとは私をみている」という感覚を得ること。
      • 特定個人に宛てられたラブレターは書き手からみえる相手の像を伝えている。
      • 「このひとは私をみている」という実感を与えられないラブレターは愛を伝達しない。
      • 「このひとは私をみている」という感覚はどのようにして与えられるのか。
      • ラブレターの書き手は、自分からみえる相手の像を伝えようとしている。
      • 書き手から推認される受け手の人柄や性格が、受け手にとって自分事に思えるかどうか。
    • それがラブレターであるか否かにかかわらず、受け手の解釈次第でラブレターたり得てしまう。
      • 予期せぬ破局をもたらすものとしてのラブレター=ラブレタリティ
      • とつぜん送られてくる送り主もわからないラブレターは暴力である。
      • たとえば自然災害。
        • 唐突に送られてきては否応なく受け取りを強いられる「ラブレター」
        • 「ラブレター」の受信を強いられることで「私」の変容をも強いられる。
        • 被災することで被災していない地域のひとから「被災者」としての目線を向けられる=「被災者」としての役割を背負わされる。
        • 「被災者」としての役割を強いられることで、「被災者」に対して広く一般(≒公共)が求める発言を期待される。
        • 「被災者」らしくない言説は(たとえ「私」にとって真意であったとしても)受け入れがたいものとして扱われる。
        • 銃殺に快楽を感じてしまったという戦時体験は公から排除される。
      • 破局がもたらす「私」の喪失
        • ふつうの意味でのラブレターは「わたし」と「あなた」を「わたしたち」という共同体に導く。
        • 自然災害を例とする公共性のある出来事は「わたし」を「地域」や「公共」といった共同体に強く接続させる。
        • 「私」が同一化した異なる主体としてまなざされる状況で「私」には何ができるのか。
          • ダンスを習得する以前のミッキーマウスはジャンボリミッキー!が踊れるようになるために練習する。
          • 踊れない身体はジャンボリミッキー!を習得する過程で踊れる身体に変容する。
          • ジャンボリミッキー!が踊れるようになったミッキーマウスは観客を喜ばせることが可能になる。
          • 観客はミッキーマウスにジャンボリミッキー!を期待するようになる。
          • ミッキーマウスは観客が期待するジャンボリミッキー!に応えなければいけなくなる。
          • ミッキーマウスの身体は観客が期待するジャンボリミッキー!に拘束される。
          • ジャンボリミッキー!を踊ることを強いられるようになったミッキーマウスはストリートに目覚めることはできるのか。
    • 多数に向けて書かれたテキストでも、書かれた内容について身に覚えがあれば「私について書かれている」という感覚は得られる。
    • ラブレターは書き手のナルシシズムによって書き出されることもあるが、読み手のナルシシズムによってラブレター化してしまうこともある。

    愛のサステナビリティ

    • 「わたし」と「あなた」が同期した「わたしたち」の世界における持続可能性。
    • 硬直状態が続くと第三者を求め始める。
      • 二者間にとどまる必要性。
    • 「わたしたち」のなかで変容しつづけることは可能か。
      • 「わたし」が変わること。
      • 「あなた」が変わること。
      • 「あなた」が変わることを許容するためにあなたに「あなた」を期待しない。
      • あなたに「あなた」を期待しない状況下であなたであることの必然性。
        • 東浩紀『訂正可能性の哲学』:「実は○○だった」(遡行的訂正)
        • 変容しつつ、元からこうであったという筋道がつくられる。
        • 「以前の私/あなた」の権利をどうするか。
      • 「わたしたち」をとりまく環境が変わること。
    • ラブレターに締め切りはない。

    ラブレターの伝達手段

    • 手紙
      • 靴箱に入れる
      • 郵便局に委ねる
      • 第三者の目に触れる可能性
      • 第三者の手に渡る可能性
        • 誤配を予防するために暗号化=二者間でのみ通ずる言語
      • 配達員に指定された届け先に渡すという責任が生ずる。
        • 内容証明郵便
    • LINE
      • 第三者への流出可能性
      • UIにスクリーンショット機能が実装されている。
        • プラットフォームが第三者への伝達を組み込んでいる。
      • トークルーム
        • 声(トーク)としての短文チャット
        • 空間(ルーム)に響く
        • 平面に書くこととの差異(たとえば掲示板)

    ラブレター以外の愛の伝達手段

    • 音楽
      • 演奏
    • プレゼントを贈る
      • 花束
      • ブランドバッグ
      • プレゼントを贈る鳥もいる

    免責事項

    • ラブレターについて語らう茶話会は、ラブレターについての議論を交わすことを通して、各参加者にとってのコミュニケーションの可能性を探ることを目的に開催しています。
    • ラブレターについて語らう茶話会における発言および本議事録は、各参加者が他の参加者を宛先に発した個人的な意見、考え、思いつきによるものです。公共に対し特定の立場や意見を主張・表明するものではなく、また、非参加者からの批判に応える責務を持ちません。
    • 本議事録は、ラブレターについて語らう茶話会に関心を持っている非参加者に対し、雰囲気を知ってもらい、参加の機会を促すために公開しています。
    • 本議事録は、主催者が勝手に書いているため、当日に語られていない内容も含まれています。

    開催概要

  • 日記250216

    目覚める前のどこかで、声をかけられていた気がする。呼ばれる名前が確かにわたしであるという手応えを感じながら、それでも目を開ける前にはすでに、その声は遠くに溶けてしまっていた。ふとした呼びかけに反応し、ふとした呼びかけを返す。そんな往復だけが、この世界でわたしがわたしでいられる理由なのかもしれない。

    体は鈍く重い。先日のストレッチや筋トレの余韻が、背中や腰に張り付いている。けれど、その鈍痛すらもどこか安心感を与えているようだった。筋肉が疲労とともに強くなっていくように、日々の些細な負荷も、わたしをわたしとして確かにしていく。

    部屋で横になっていたとき、ふいにあのときの彼女の顔を思い出す。彼女は呼びかけられることも、こちらから呼びかけることもなかった存在だった。ただ見つめるだけで、ただ遠くにいるだけだった。名前を呼ぶことも、名前を呼ばれることもなく、届くことのない距離にあり続けた。しかし、だからこそいまもなお、彼女への思いはわたしの中に生き続け、過去から未来にわたしをつなぎ止めている。

    距離があるからこそ、届いたときに確かめられるものがある。わたしはあの頃、距離そのものに怯えていた。言葉は届かないかもしれない、あるいは届いたことで拒絶されるかもしれない。そうして、わたしは距離に言葉を閉ざした。しかし、言葉は本来、距離そのものだ。わたしとあなたを分け隔てるその隙間に、声は落とされる。そして、そこから応答があれば、わたしとあなたをつなぐ糸のように、その声が形を持ちはじめる。

    カレーうどんに納豆と卵を落とし、かき混ぜながら、こんなことを思う。食べることすら、体に何かを届け、体が受け取るという応答なのかもしれない。わたしは言葉を交わし、食べ物を摂り、そうやって絶えず距離に何かを送り続けている。届くかどうかわからなくても、わたしはそれを続けるしかない。

    ショルダードレスを買おうか迷っている。鏡に映る自分の姿を想像しながら、これは似合うのか、これを着て外に出る自分はどう見えるのか、そんなことを考える。衣服をまとうことも、わたしと世界の距離を調整する手段なのかもしれない。

    呼ばれる名前、呼びかける声。過去から届く思い、届かずに漂う思い。わたしは今日も、距離に言葉を送り続ける。それがわたしを、わたしにしている。

  • 日記250207

    夢の中で、私はひとり雪に覆われた街を歩いていた。空気は凍りつき、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。街灯が湿った舗道に淡い光を投げかけ、溶けかけた雪が黒い水たまりとなって冬の空を映していた。人々の影は微かな霧の中に現れては消え、黄色がかったランプの光の下で揺らめく影に過ぎなかった。雪を踏みしめる足音だけが響き、街全体を静寂のヴェールで包んでいた。

    そして、彼女を見つけた。

    明るく照らされたショーウィンドウのそばに立つ彼女。顔の半分は黒いウールのマフラーの下に隠れていた。長いコートのポケットに手を入れ、凍える空気の中に白い息をそっと浮かべていた。姿の一部は隠れていたが、私は一瞬で彼女だとわかった。胸の奥に懐かしい温もりが込み上げる。それは遠い過去の残響であり、記憶の中で凍りついたまま、ずっと待ち続けていた存在だった。

    私たちの目が合った。ほんの一瞬のことだったのに、時間が引き伸ばされ、周囲の世界が霞んで消えていくように感じた。私はためらいがちに一歩踏み出した。彼女は微かに微笑んだ。それは一瞬の、ほとんど見えないほど儚い微笑みで、宙に舞う雪の結晶が光を屈折させて生み出した幻のようだった。

    言葉を交わさぬまま、私たちは歩き始めた。その沈黙は重くはなく、むしろ自然で、必要なものにさえ思えた。彼女の歩みは軽やかで、まるで世界の上を浮かんでいるようだった。道は続き、眠る建物の間をくねりながら伸びていた。暗い窓は閉じられた瞳のようだった。

    遠くに古い駅舎が見えた。彼女は立ち止まり、それを指さした。
    「覚えてる?」彼女は静かに囁いた。

    私はうなずいた。忘れるはずがなかった。あの冬の空の下で、私たちは離れ離れになったのだ。ここで道が分かれ、言葉は沈黙へと変わった。それでも、この瞬間——心臓の鼓動の合間に宿る吐息のようなひとときは、どんな後悔にも消し去ることのできない優しさを含んでいた。

    私は彼女の方を振り向いた。彼女の瞳は静かで、奥深く、測り知れなかった。しかし、その奥に、微かな期待と壊れそうな希望を見た。

    迷いなく、私は彼女の手を取った。

    温かかった。凍てつく空気とは対照的に。その親指が私の肌の上でかすかに震えたが、彼女は手を引くことはなかった。むしろ、そっと指を絡めるようにして、今この瞬間を封じ込めるかのようだった。

    ——そして、すべてが消えた。

    暗闇の中で目を覚ます。部屋には私ひとり。夢の余韻が苦い味となって、まだ空気の中に漂っていた。