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日記210321

 目を覚まして、雨が降ってるなと思った。そのわりに妙に暖かいのがきもちわるい。天気に対してひとが抱く感情はだいたい似通っていて、同日に同地域で書かれた日記をまとめて読むと、天気によって複数の個人が同期させられる感覚がよくわかる。

 ここしばらくインターネットで文章を書くときは主にnoteを使っていた。さいきんの日記もすべてnoteに書いていた。ただ、noteのSNS的な機能──アプリを開くとまずタイムラインが表示されたり、書いた記事に宣伝目的の「スキ」がついたり──がわずらわしく感じられて、あとサービスがユーザーを「クリエイター」呼ばわりしているのもどこか癪に触り、もっとシンプルにネットで文を書きたいと思い、個人サイトを立てた。たかが日記を書くためだけにレンタルサーバーや独自ドメインの契約をするのはじぶんでも馬鹿らしいと思う。noteとかはてなブログとか、メールアドレスを登録するだけで無料ですぐにブログが書けるしすごかったんだなと思う。正直、wordpressを使うことでなにができるのかもよくわかっていないし、どこまでがはてなブログなどでも代用できる範囲なのかもわかっていない。どうせ文章を書くだけだから、デザインもなるべくシンプルにただ文字が置かれている場をつくりたい。となれば、たぶん他のブログサービスで事足りるように思う。それでも、サービスが親切心で半ば強制的に、これ見よがしにつくりだす他人とのつながりを切断することの意義を信じたい。なんといっても気が楽だ。もとから私のブログなんてどうせ読むひとも一桁人数ではあるが、とりあえず読んでくれるひとにだけ読んでもらえればうれしいし、わざわざ知らないひとの目に着こうとも思わない。だったら最初から、離れに小屋を建てたほうがはやい。
 それに、よくわからないなあと頭を抱えながらあれこれ操作するのはたのしい。独自ドメインもなんかかっこいい。それらしいプロフィールページもつくれて笑える。こうした小さなフェティッシュをくすぐられながら、まあお金を出した甲斐もありそうだなと思っている。これで日記が継続しなかったら苦笑するしかないが、書き続けるモチベーションを保つためにそれなりの負担を負っておくのもよいのではないだろうか。
 巧みにコンテンツ化されていない、ちょっと知っているひとたちが素直に殴り書いた文章を読んだり、そうした文章をじぶんでも書いて読んでもらったりするのが、インターネットに触れ始めたころから好きだった。いまはあまりそういう営みはウケないのかもしれないけど、まだ好きなひとは一定数いるんじゃないだろうか。Twitterのフォロワーが書いたブログを適当に探していくつか読んで、そう思ったのは昨晩のことだ。

 夕方に日暮里へ向かい、九月という名前の芸人の公演を観た。この方を知ったのはつい先週のことだが、こういうものは気になったタイミングで即座に観に行くくらいでちょうどいい。でなければ機会を伺っているうちに面倒になるし、とりあえず一回でも行っておけばその後も観る機会を設けやすくなる。
 全十本のコントと朗読劇が披露され、朗読劇のおかしさは一旦さておき、彼のコントに通底するものとして、観る/観られるの一方向的な関係を崩したり取っ払ったりする凄みがある。現に今回の公演も、劇中劇における観客としてコントのなかに内包されてしまう、コントのなかでの違和感の原因が観客に設定されている、などの仕掛けが効いたネタもあり、笑いを誘われると同時に不気味さにも似た気持ちにもなる。
 たとえば価値の転倒の代表例として私の好きな漫画作品に藤子F不二雄「流血鬼」がある。物語のあらすじはこうだ。主人公は吸血鬼に襲われている。吸血鬼に血を吸われた人間は、自身も吸血鬼になってしまい、すでに主人公以外の人類はすべて吸血鬼になってしまっている。それでも主人公は抵抗して吸血鬼狩りに躍起になり、対して吸血鬼側は主人公の攻撃的な態度を「流血鬼」と称して批難する。物語の最終盤で主人公は吸血鬼に血を吸われ、絶望感のなか人間から吸血鬼に変容してしまうが、吸血鬼となった身体で見た夜の世界の美しさ──人間としての身体では見えなかった価値──を見て、その世界や身体を好意的に受け入れるところでお話は締められる。
 しかし、こうして劇的に価値の転倒を描いたとしても、観られる作品と観ている読者の立場は変わらない。変えられない。せいぜい読書が主人公に自己を投影し、擬似的に体験することしかできない。しかし、生の舞台は異なる。現実にリアルタイムで演じる者と観ている者が成立している場において、その関係性は絶対的に固定されたものではない。なにを演じるか、いかに演じるかによって、場全体における劇の範囲を柔軟に変えられる。範囲を柔軟に変えられてしまうことで、もっともあやうくあいまいな立場に置かれるのは観客だ。一方的に観ていられると思っていたはずが、そんな安心はどこにもないと気付かされる。
 九月さんのコントにはこうした劇の範囲の操作や観客の立場にゆらぎを与える仕掛けが巧みに配置されているように感じられる。(あえて注を付すが、このような話は演劇界では常識なのかもしれない。じぶんは演劇に疎く、この辺りをさらに深く進めることができない。しかし上記のようなことを思うくらいには劇や演じることに対する関心が生じてきたこの頃であり、はやくどうにか疫病の騒ぎが落ち着いて、生の舞台をあれこれ観に行けるようになればいいなと思う)
 そしてなにより、ネタの本筋から離れて小難しく語られる解釈など遥か遠くに置き去るように、たのしくおもしろく観られる。意味がわからないフレーズや振舞いを繰り返し見せられ、何だこれ? と思いながらも笑ってしまう。たのしい夜を過ごせてよかった。

 どうも文が長くなる。千字くらいで書き終えたいと思いながら、思いついたことをあれもこれも書き出してしまうから、こうなってしまう。しかし、全体のバランスなど考えずに思いついたことを適当に書き出せてしまえるのも日記の良さなのかもしれない。

カテゴリー: 日記