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日記241002

 愛の言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ、言葉自体の運命に委ねられる。受け取られることなくだれのこころにも響かずに消え去ることもあれば、予期せぬだれかのもとに流れ着き、おもいもよらない仕方でだれかの胸を打つこともある。その愛の言葉が宛てられた受け手に届いたとしても、書き手が意図したままの感情を伝えられることは稀だろう。しかしだからといってラブレターが無力だというわけでもない。
 おそらく多くの場合にはラブレターは愛を伝えることを目的として書かれるが、その言葉が意図どおりに受け手に届くとはかぎらない。むしろラブレターの言葉は書き手と受け手のあいだに横たわる不確実性と誤解の可能性を孕んだ曖昧な場をつくりだす。その場において愛は固定された概念としてではなく、読み手の解釈と心の状態によって、あるときは強烈な感情として、またあるときはささやかな響きとして立ちあらわれる。たとえおなじ言葉を使っていたとしても、愛がその文字列のなかに潜んでいるかどうかは読み手の状態に左右される。
 愛が発見される瞬間は意図的に生み出せるものではない。むしろそれは、偶然に、あるいは予期せぬタイミングで、受け手のもとに不意に訪れるものだ。たとえば、書かれてから何年も経ちある出来事をきっかけに突然その手紙を読み返すとき、過去には何の響きももたらさなかった言葉が現在の読み手に強く訴えかけることがある。このとき愛は書かれた瞬間に生成されたのではなく再読という行為を通して新たに発見され現前する。ラブレターが愛を伝えるかどうかはけっしてその手紙が書かれた当初の意図や状況には依存しない。愛はつねに読み手に対して開かれた可能性としてそこにあり、その姿を変えながら現れ、あるいは消えていく。

 愛の伝達の不可能性。言葉は書き手の感情そのものを他者にそのまま届けることはできず、伝達を試みる瞬間にその不可能性を露呈してしまう。だからといって愛の言葉が無意味だと結論づけることもできない。伝達の不可能性を認識したうえで書かれたラブレターであるからこそ、読み手がそこに愛を発見したとき偶然にもたらされた奇跡のような体験として記憶にのこることだろう。書き手が意図した愛がそのまま伝わったのではなく、むしろ言葉が不確かに響き、時には誤解されるその過程を経たからこそ、その言葉が最終的に愛として受けとられる瞬間が訪れる。
 ラブレターの言葉は書かれた瞬間に書き手の手を離れ独自の運命を歩みだす。愛は伝えられるものでも理解されるものでもなく、受け手によってその言葉の向こうに発見される。書かれた言葉を手がかりとして、受け手がそれを感じとり、自らの心の中に愛を創り出すプロセス――それこそが愛の発見の瞬間なのだろう。ラブレターは愛の発見を生み出す媒介物にすぎず、ラブレターが持つ本当の力とは、不確実さゆえに受け手が偶然にもそこに愛を見出す可能性を秘めているところにある。言葉が受け手の心をどのように揺さぶりどのような感情を生じさせるかは、書き手の手を離れた瞬間からすべて受け手の内なる心の風景に委ねられることになる。伝えられないからこそ愛は書かれる。伝わらないからこそラブレターは書きつづけられる。愛はその行為のなかでだれかに発見されるのを待っている。

ラブレターについて語らう茶話会を開催します

日時:2024年10月19日(土)15時30分から18時00分まで
場所:府中市内貸し会議室(京王線府中駅から徒歩1分)
参加費:500円
定員:8名
お申し込み:Googleフォーム

カテゴリー: 日記