その日の夜に日記を書くと、日記を書いたあとの寝る前までの出来事がまったく記述されなくなってしまう。だからその時間帯での出来事を書く日があってもいい。
昨晩、プライムビデオで『私をくいとめて』という映画を観た。綿矢りさの小説が原作のこの作品は、主人公・みつ子の脳内に相談役のAという存在がいて、その主人公の声と脳内のみで発される声との会話が絶えず行われる点に特徴がある。しかしこのAは内なる声であるにもかかわらず、かなり外側にひらけていて、目の前にある現実に対してもつねに冷静で客観的だ。ゆえに、慣れない飛行機に乗ってパニックに陥ったときも、焦って周囲が見えなくなるみつ子をAはやさしく励ます。いわば自意識でしかないはずのAは、みつ子が現に置かれている状況から離れた神の視点から声を発している。この内なる声かと思いきや神の声たるAはその存在をどこに由来しているのか、解釈に迷う。Aがたんにメタレベルに生じた「私」であれば「私にとってAは私であり、Aにとって私は私である」という等価の関係として扱えるが、『私をくいとめて』では(たとえ台詞上で「私はあなたであり、あなたは私である」という旨が発言されていても描かれ方として事実上)「私にとってAは私であり、Aにとって私は彼女である」という非対称な関係として現れている。神の視点、と書いたが、神はすがる対象でこそあれ、じかに語りかけてくる案内役ではないように思う。私に語りかけてくる内なる三人称(めいた)視点というのはかなり異様だ。この視点が何を示唆しているのか、あるいは現実的に具体例としてどんな状況が挙げられるのか、あまり思い当たらない。原作だとまた異なる表現として書かれているのだろうか。一時間ほど観て、飽きと疲れがきて、観るのを中断した。まだ続きを観ることができていない。最後まで観ればなにか異なる気づきがあるのかもしれない。
テレビのバラエティ番組やお笑いのコントのような演出がされた国内映画をたびたび見かける。隙間を埋めるように劇伴をあててシーンをつないだり、テロップのように文字を文字として画面に映したり、露悪的にいえば過度で派手でわかりやすく(映像の内側と外側の両者にとっての)感情をつくり出そうとする効果が主だ。こうした演出は「映画好き」「洋画好き」のひとたちには揶揄や蔑視の対象として扱われることが多いが、端的に依存する文化文脈の違いでしかなく、インドのカレーと日本のカレーがそれぞれ異なるみたいな話でしかないように思う。理想的な映画像を掲げて、それに該当しないと思われる「映画」を名乗る表現に対し、これは映画ではないと判断をくだすことで、さらに理想像を強化する否定神学的態度はあまり好きではない。そう思う一方で、テレビバラエティ的演出による映像制作ももっと洗練されていてもいい気がする。実際問題、一時間で飽きと疲れを感じた原因の一端はそこにあるのではないか。過度で派手でわかりやすい演出も、数分のコントであれば楽しめるのかもしれないが、二時間もやるようではさすがにうるさい。せっかくテレビバラエティ的とざっくり括れてしまうような表現手段をもっているのだからもっと研ぎ澄ませて驚かせてほしいと、観客としては素直に欲望してしまう。べつにじぶんは映像表現に長けているわけでもなく、こちらからなにかアイデアを出すなどとうてい無理なのだが、制作のプロにそれくらいの期待をしても問題はないだろう。表現に可能性を見出す、表現の可能性を支えるのは、表現者や実作者よりもむしろ観客の側なのかもしれないけど。
以上は昨晩に考えていた話で、今日は何があったか何を考えていたか特に思い出すようなこともなく、ただ朝の目覚めがやけによかったことだけは覚えている。あたたかくなってきたおかげだろうか。