嫌いな語がいくつかある。嫌い、苦手、抵抗を感じる、不快に思う、どこに分類してよいものか、とにかく身体に近づけたくない語がいくつかある。語が嫌なのか、語の意味が嫌なのか、語の韻律が嫌なのか、語が持つ文脈が嫌なのか、たぶんその語によって原因はさまざまで、しかしいずれにしても語自体にさほど悪気はないのだろう。きっと語ではなく語を使用する者への嫌悪が語にも浸透してしまっているだけだ。ただ、ひとが語を使用すると同時に、語もまたひとを使用しているはずで、ひとの認識に語が与える影響はきっと大きい。だから、発話する主体を傲慢に奮い立たせてしまう語に対して警戒してしまうことはそう少なくない。
たとえば「汚い」。汚いだとか汚ねえだとか、なにかぐちゃらとした対象などを見て反射的にそう発するひとは多い。「汚い」とひとが言うとき、発話者は対象を蔑視している場合が少なくない。指示した対象から身を遠ざけ、明らかな嫌悪を表情に浮かべながら、蔑み、見下し、嘲笑するように「汚い」と言い放つ。その蔑みが笑いとして場に共感される。「汚い」とひとが言うときの、みずからは綺麗な側であるという揺るぎない自信という名の驕りや慢心、無思考に反射的に何かを侮蔑してしまう態度、それによって同期される集団の排他性、これらをどうしても好意的に受け取ることができない。「汚い」という語が浮き彫りにする発話者やその周辺に現れる感情や感覚や感性に差別的意識を感じ取ってしまう。対象がひとでなければ侮蔑も許されるのか? なぜじぶんは汚くないと思えるのか? その汚さが人間の営みから発生していることをどう思うのか? その物自体が汚さを帯びているのではなくみずからが汚さを付与しているだけだと気づかないのか? 汚いと指摘するひとと汚いと指摘される対象が生じる場に立ち会うと、どうしても後者に肩入れしてしまうのは、その一連にどこか「イジメ」的な雰囲気を感じてしまうからだ。みずからが安心するためになにかを馬鹿にするような態度や言動はやはり好まれるものではない。ひとに対してはそう振る舞わない者でも、ひとでなくなった途端に当然のように排他性が見えてしまうことはたびたびあり、日常におけるその現れの代表が「汚い」だ。
ただ、そう思ってしまうのは、なによりもまずじぶんがじぶんのことを汚いと思っているからかもしれない。自身の容姿に関心がなく、身だしなみは雑で適当、服も靴もよれよれで、不潔でみすぼらしい醜い姿をつねに人目に晒している、部屋は物で散らかり、本棚は溢れかえり、ごみは溜め込み、浴室には黴が生えていて、埃の積もった床ではゴキブリが這い回り、机上に積まれた本のいくつかは表紙が破けている、生まれ育った家庭は下流で、低学歴で、教養に欠き、行儀も悪く、低収入で、ろくに働きもせず、ろくにひと付き合いもせず、他人の関心を引くこともなく、陰気で、根暗で、むろん社交性とも縁がなく、自宅にひきこもり、己の内面にひきこもり、いつ破棄されてもおかしくない存在として、肩身を狭め、息を潜めつづけている、体内にも皮膚の上にも大量の細菌を抱えていて、体臭は鼻をつき、身体中から体液が排出され、排便はするし時には吐瀉もする、垢が、汗が、毛が、フケが、皮脂が、涙が、鼻水が、唾液が、胃液が、精液が、血液が、尿が、糞が、私の身体から発生し体外へと溢れ出ている、そんな汚い存在、だから、汚さによって線が引かれたとき、私はいつだって汚いと指を指されて嘲笑われる側にいる、指を指して嘲笑い、仲間内で同調し安心を確認する側にはいない、いられない、いたくない。
語は悪くない。語に操られる主体が悪い。語を悪役にする物語が悪い。だから、私も「汚い」という語が嫌いと断言はできない。私が嫌いなのは「汚い」という語によって集団の暴力が生まれること、また、「汚い」という語によって暴力を働こうとするひとたちだ。罪はコンテクストにこそあり、コンテクストを担ってきたのは語を運用してきた発語者の方だ。とすれば、自分自身が汚い存在であるからこそ、「汚い」という語に抵抗せず、むしろその語の回復に努めるべきだという考え方もできる。生活を営む以上は汚いより汚くない方が何かといいことは多いだろうが、だからといって「汚い」と嘲笑を結びつけていいとはかぎらず、だからこそ嘲笑と結びつけられてしまった「汚い」を守ってあげなくてはいけない。
労働をして、労働を終えて、暖かかったから公園で酒を飲もうと思った。時間にも余裕があったから、いつもは降りない駅で降りて、気になっていたラーメン屋を訪れた。ラーメンを食べて、まあこんなものか、と大して満足もせず、かといって落胆もせず、また電車に乗って府中で降りる。ファミリーマートで缶ビールをひとつ買い、府中公園のベンチで缶を開ける。公園内の木々は花が開いていて、宴会をする親子の集団もいた。ほかにも私と同様にひとり飲酒するサラリーマンや若者、散歩をする男女二人連れ、犬を連れる中年、夜の公園にはさまざまなひとがいた。そのなかに、ビールを口に含みながらこの日記を書いている私のことを、ブログ用の日記を書いているひとだと認識する者はいない。私自身も、夜の公園で酒を嗜むいちサラリーマンとして風景に同化する。転々と光る照明が周りの桜を闇のなかにぼんやりと浮かばせ、顔は見えずただ誰かがいることだけが見える程度の視界に、愉しげな声とこどもたちが走り回る音が響く時間は、ずいぶん穏やかだった。