交換日記という名目の共同ブログに参加をさせてもらっている。五人で順番に日記を書いて、前のひとの日記を読んで、また書いて。十日前にじぶんの番が回ってきていたので、それを書くための準備をした。日記を書くための準備というのもおかしな話で、日記なのだからここで書いているような思いつきみたいな雑記をささっと書いてつぎに回してしまえばよいのだが、せっかくの場だからいろいろ試してみたいという思いがある。他人が書いた文章を受け取る文脈のなかだからこそ書ける文章や書く手つきを模索したい。準備をしながら冒頭を書き出してみて、早々に疲れてつらくなり中断した。いまここに書かれている文章がそうであるように、思いついたことをそのまま出力することは比較的楽な行為だ。それに対し、考えがたどり着いていないところに目いっぱい手を伸ばして、指先でぎりぎり届かないところにどうにか届こうとするように文章を書くことは相当の負荷を強いられるし、苦痛も伴う。ただ、いつまでも楽に安住もしていられない。私を象る線を解きほぐし、柔軟で、変容可能なものにしていくためにも、普段と異なる身体の使い方を用いて負荷を与えながらいつもと異なる流れをつくり、その不慣れな流れに身体を合わせようとする、そのような営みがいまのじぶんには必要で、だから書くつらさを、つらさを伴った記述行為を、喜んで引き受けていきたい。できれば、あまりつぎのひとを待たせない程度に。
そんな調子で15時前まで読んだり書いたりを往復して、疲れて飽きてプロ野球中継を見だしているじぶんに気づき、今月の現代詩手帖をまだ買っていないことも思い出し、外出をした。昨年末から月一程度のペースで訪れている七月堂へ行き、詩誌「Aa」と古本などを買った。前橋文学館で行われている「マーサ・ナカムラ展」のフライヤーをもらい、ちょっと気になりつつも、前橋まで行くことの壁に尻込みする。つづいて新宿へ向かい、紀伊国屋書店で現代詩手帖と文庫本二冊を買った。カフカ『ミレナへの手紙』を衝動買いしそうになるがどうにか踏みとどまった。それでも、また本を買いすぎちゃったなと若干の後悔を抱きながら、今後の生活を心配しつつ帰りの電車に乗った。本を買うペースと読むペースの非対称性が気になり、まっすぐ帰らずにドトールへ寄って、デリダ 『絵葉書』を読み進めた。あしたから早起きして、出勤前に読書時間を設けようかなと思いつくが、早起きが苦手だし、ただでさえ日中に眠気に襲われて労働に支障が出ているこの頃だから、たぶんやらない。
言葉は意味である前に、まず音である。という至極あたりまえのことをあらためて考える。自身にとっての言葉のルーツを辿ると、自覚しうるかぎりもっとも大きな影響源として音楽の歌詞が挙がる。中学生の頃からGARNET CROWという音楽グループが好きでそればかり聴いていて、全曲の作詞を担うAZUKI七というひとが書く言葉を、ボーカルの中村由利の(歌)声として毎日繰り返し聴いていた。私にとって言葉は意味ではなく、まず声色であり声の響きであった。だから、いまの私は文を読んだり書いたりの方を好み、音楽を聴く頻度が減ってしまってこそいるが、文を読んだり書いたりすることがGARNET CROWというじぶんにとってもっとも音楽らしい音楽からまっすぐに通じているような気がしている。詩に対する関心が強まってきたことも、詩の古典は基本的に読むものであり、音韻がもたらす論理も重視されることにひとつの理由があるのかもしれない。
たまに私が書いた文章を読んだ方から、読み心地がよいとかリズムがよいとか、意味以前に耳の感触について言及していただけることがあり、それがかなりうれしい。音楽のような文章を書いてみたい。書けるようになりたい。Aphex Twinみたいな文章が書けたらおもしろいと思う。Merzbowみたいな文章があったら感動すると思う。音楽のような文章や文章のような音楽がある文化はきっと豊かだ。
早稲田文学の二〇二一年春号はオノマトペ特集で、そのような関心で読むにはちょうどいい。まだほとんど読めていないが、まっさきに読んだ高塚謙太郎さんの論考が興味深く、まさに、言葉は原初的には音声であり、であるならば言語による抽象化は当初すべてオノマトペであったはずだ、と仮説を立てるところから始まる。音韻や音律から意味、あるいは意味以外の何かを立ち上げる表現としての詩。それはやはり音楽とはそう遠くない親縁関係にあるように思う。
オノマトペではないが、私の話し言葉にはフィラーが多い。言い淀み。発語の前やさなかに挿入される「えーと」とか「あー」とか。労働中の、言葉の装備を解除していてろくな言語運用ができない状態でいる私は、より一層フィラーが多くなる。われながら困ったものだなと思いながら、しかし問合せの電話対応をするときに、みずからの感覚としては「えー」や「そのー」とばかり発語しているのだが、なぜか相手が納得してくれるという場面が少なくない。問われたことに対してろくな説明ができていないのに、納得して電話を切った相手は何をどう理解したのだろうか。たいへん不思議に思う。そうした経験もあって、聞き手は言葉の意味をいかに取得していて、あるいは発された言葉からなにを得ているのか、という疑問が生じ、言葉がまず音であることに関心が出てきている。論文のひとつやふたつ読んでみようかと思いながら、思っただけで終わっている。