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日記210329

 入浴中の手持ちぶさたな時間はもっぱら読書にあてていたが、この頃は日記を書く時間に置き換わっている。湯に包まれて脱力しながら文を書いている。おかげで日記は続いているが読書の時間は減ってしまった。日記によって書くための時間を毎日設ける必要が出てきてしまった以上、読むための時間を同等に確保するにはやはり早起きするしかないのだろうか。ほかの手立てを模索すべく、帰りにマクドナルドへ寄り一時間ほど読書をする。
 読書記録としてInstagramに初読の本を投稿し続けて一年半以上経つ。記録を見るに平均して月に五冊から六冊程度しか読めていない。読んだ本をすべて投稿しているわけではなく、再読の本もあれば文芸誌をつまみ読むこともあるしネットで読む文章もある。投稿されたものがすべてではない。しかし、可視化されていないものを見込んだ上でも、やはり読む文章の量が圧倒的に少ないように思う。東浩紀がいつかの配信で、月に十五冊はふつうに読むべきじゃない? と言っていて、たぶんそれを機に、ひとは月に十五冊ほど本を読まなくてはいけないという偏った価値観がインストールされたように思う。ただ、この考えが偏っているのかどうかもかなりあやしい。実際、身近なひとと読んだ本の話をする機会なんてほとんどないから、たとえば電車で横になったひとや道ですれ違ったひと、いつものスーパーの店員や職場で顔を合わせるひとなど、彼ら彼女らは素知らぬ顔をしてしれっと月に十五冊程度の本は読んでいるのかもしれない。たぶん読んでいるのだと思う。私が目一杯時間を費やして五、六冊しか読めないなか、周囲のひとびとはみな平然とその二倍、三倍の量を読んでいる。そういうことにしている。実情がどうであれ、そう思っていた方が、自らの至らなさを直視できるし、もっと己を奮い立たせなければならないのだと追い込まれる気持ちも出てきて、何かと都合がよい。量をこなすことが目的化してしまっては本末転倒だが、量をこなすことはなによりの大前提として必要なことだ。粛々と量を積み上げ、勝手に過剰さができあがってしまう状態を、まずはつくりあげなければならない。
 その点でいくと、こうして毎日日記を書くことは、たかだか一日千字程度でこそあれ、そう悪くない行いだとは思う。誰に言われるでもなく、誰に求められるでもなく、誰の期待に応えるでもなく、書きたいことがあろうとなかろうと、毎日勝手に粛々と文を記す。そうすることで、文を書き出すのではなく、文を書いてしまう状態にまで身体や生活を変えていこうとする。わざわざ予定せずとも食事をしたり排泄をしたり睡眠をしたりするように文を書く営みを生存本能に近づけていく。書くことを前提とした身体を育てたうえで、ようやく身体から発露される表現として書くことを扱っていく、扱えるようになる。扱えるようになる? ほんとうに? ここまで流れで書いてみて、じぶんの普段の考えとはやや路線が異なるようにも思えてきた。ここは一度留保して、じぶんにとって生活(が要請されること)と表現(を必要としてしまうこと)とがいかなる関係にあるべきかについて、別途検討することにしたい。
 しかしそうしたものとして、本を読む、文を読む行為を身体に馴染ませたいと素朴に欲望している。読書が好きだとか読書家だとか、そうした生ぬるい次元ではなく、生きるうえで必要な営みとして言うまでもなく書を読む営みがあるという状態を、まずはつくらなければならない。月に何冊だとか数値目標を掲げているような段階は、しょせん準備運動の時点にすぎない。数字を超えた向こう側がスタート地点だ。ゆえに私はまだどこにも出発できていない、ウォーミングアップでへこたれてる無様な輩で、だからのんきにうかうかなんてしていられない。そののんきでうかうかを突き破るためには気合とか根性とかも意外と大事なように思ってしまうのは(一応)元体育会系の性だろうか。

カテゴリー: 日記