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日記210330

 労働を終えて自宅へ帰る途中で、マクドナルドに寄って読書をする。川添愛『ふだん使いの言語学』を読み始めた。たとえば言語にはつねに曖昧性がついてまわる。多くの単語が複数の語義を持つように、ひとつの言語表現が明確に異なる複数の意味をもつ場合はあまりに多い。「猫」という一般名詞の解釈を例に挙げる。「猫は動物だ」といえば、ここで「猫」とは「猫一般」のことを指している。したがって「猫は動物だ」は「すべての猫は動物だ」と言い換えることが可能である。もしくは「猫にえさをあげなきゃ!」というとき、この「猫」は発話する主体にとって特定のある個体を指示している。したがって「(飼い猫である)タマにえさをあげなきゃ!」と言い換えることが可能であり、しかし先の例のように「すべての猫にえさをあげなきゃ!」と言い換えると途端に規模が大きくなってしまったような気配を帯び、違和感が生まれる。使用される文脈に応じて「猫」という語は不特定の全体を指したり代替不可能な特定の一を指したりする。さらに「猫が喧嘩していた」というと、一方ではたまたま見かけた匿名性ある猫たちが喧嘩をしていたと想定できるし、他方ではよく知る特定のタマとミケが喧嘩をしていたとも想定できる。ただ少なくともここでの「猫」は単体ではない。喧嘩をするには異なる複数の主体が必要であることから、「喧嘩」の語によって「猫」に複数性が付与されているとわかる。
 ここで本の内容から離れてみる。「猫が喧嘩していた」という一文における主語は「猫」である。しかし、「猫が喧嘩をしていた」という一文が書かれるにはその文を書く表現主体が要請される。ある主体が客体として表現したものとして「猫が喧嘩をしていた」という文がある。さらにいえば、「猫が喧嘩をしていた様子を目撃した私」が記述されているのであれば、その「私」もやはり表現主体にとっての客体として扱わなければならない。つまり語る語り手と語られる語り手は異なる位置に存在している。このように、ある文に触れるとき、読み手はその文から表現主体の存在を読み取らずにはいられない。にもかかわらず、表現主体の肉体の不在を抱えている文章の特性ゆえに、読み手は書かれた文章から遡行的に表現主体を仮構せざるをえない。表現主体Aが書いたテクストにはAを起点に語られる主体Bがいて、読み手Cはそのテクストから表現主体A‘を立ち上げる。主体はつねに分割される。メッセージは正しく宛先に到着しないことがつねにありうる。その構造によって書かれた「猫」は一層多重化し、また複数回に渡って異なる宛先に到着する。昨日に読み終えたデリダの『絵葉書』にはそんなようなことが書かれていた。
 夜ごはんに焼きうどんをつくって食べた。おいしかった。

カテゴリー: 日記