ある文章が常体で書かれたとする。
ある文章が敬体で書かれたとします。
文体が選択されるということ、あるいは文体という性質それ自体は、書き手や読み手にどんな働きを与え(てい)るだろうか。まず、ある文体が選択されるにあたっては、書き手の志向以前に、書き手が置かれた環境、つまり文が書かれる環境が、ひとつの型として設定されるだろう。親しいひとに宛てる手紙と不特定多数に宛てるビジネス文書とでは、たとえ内容がおなじでも採用される文体が異なるはずだ。より卑近な例を出せば、Twitterで、Instagramで、Facebookで、LINEで、それぞれ採用される/されやすい文体は異なるのではないだろうか。それはいかに読み手にとって受け入れやすい文章を書くかということでもあるが、ある見方においては、その場(や場がもたらす文脈)が書き出される言葉に変形を強いているのだということもできはしないか。文が書かれる状況から、書き手は自由でいられない。
日常的な言語コミュニケーションの場合、ひとびとは、さまざまな状況に応じた文章の型を無意識に察知し、この状況ではこうした文体、この宛先にはこうした文体、とあえて考えるでもなく選択をし、文を書き出していることだろう。その点でいえば、書き手は文が書かれる状況からさほど不自由を感じない。他方で、こうして文を扱う場を「言語表現」として捉えようとした場合には、文章の型に対しては少なからず意識的であることが求められよう。わかりやすい例では定型詩が挙げられる。五七五の十七音による韻律と季語の設定という制約=型が、俳句を俳句たらしめるような独特のリズムを生み出す。型を自覚せずに俳句は書けず、型への意識が要請されるからこそ型から逸脱した句までもが成り立つ。言語に負荷を強いるある表現形式の独特のリズム(この「リズム」は音韻に限定されない)は、逆に言えば、その場に現れる文の表現由来を担っているともいえる。「古池や蛙飛びこむ水の音」の上の句を「古い池がある」ではなく「古池や」として立ち上がらせるのはまぎれもなくリズムの負荷である。つまりリズムは言語の変動要因として顕在化する。あらかじめ設定された舞台が用意するフレーム、それも日常的な言語運用における論理や規則とは大きく異なるフレームに、その抵抗力を借りて身体のかたちを変容させていく過程が表現と呼ばれるものであるならば、表現主体は歪にも見えるフレームからどのように負荷を受け取るかということを、みずからの身振りに組み込んでいかなければならない。
小説、詩、戯曲、往復書簡、対談の書き起こし、ある者の語り起こし、一人称視点のモノローグ、三人称視点の物語、公開されるエッセイ、私的な日記、未就学児向けの絵本、ポップミュージックの歌詞、新聞記事、広告のキャッチコピー、ホワイトボードに書かれる議事録、付箋に書かれたメモ、パワーポイントでつくられたスライド資料、クイズの問題文、大喜利のお題と回答、問題集の解説書、序文、あとがき、注釈、論文、論文のなかの引用文、公文書、憲法の条文、利用規約、契約書、街中に立てられた看板の注意書き、書店のポップ、トートバッグにデザインとして書かれた文、YouTubeの概要欄、匿名掲示板の書き込み、料理のレシピ、パーティの招待状、カフェのメニュー表。役割が付与された文章は、その役目を果たすだけの形式の上で書かれる。文を支持する場が所有する形式によって、文が書かれる外的要因たる場=型と内的要因たる表現主体の志向とが、判断不可能な状態で混在したものとして文章には組み込まれ、その文章から、場と書き手が混在した状態としての表現主体が事後的に発見される。これは、上に羅列したようなある程度類型化可能な状況、役としての文章だけでなく、未分化の散文も同様である。この文章が敬体ではなく常体で書かれていることは、書き手に由来するのか、それとも場に由来するのか、易々と判断できることではない。「この文章が敬体ではなく常体で書かれていること」という一文において、「文/文字列/テキスト/テクスト」などでも代替可能と思われる「文章」が「文章」として選択されたことは、表現主体の意思なのかリズムの要請なのか、これも同様に判断できることではない。
こうした前提のうえで、表現主体を歪に変形させる場から新たに設定し提案しようとするとき、どのような手法が考えられるか。端的にいえば、まだ発見していない文のリズム=文章の書き方はいかにして開発可能か。それを検討するには、日記という場はすこし頼りないだろうか。上から下までまったくうまく整理されていないが、日記(というか覚書?)なのでよしとする。
参考:【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part8)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト