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日記210416

 詩や小説を読む。なんとなく、いいな、と思う。そのなんとなくのいいなを言葉にしようとするときのむずかしさは、なぜ生じるのか。たとえば、ある小説を読んでいいなと思い、このお話にすごく感情が揺さぶられて!と声に出したとして、しかし感情が揺さぶられたのはお話のある一部分でしかないだろうし、お話という要素は小説のある一部分でしかないだろう。ここで示されるお話のある一部分や小説のある一部分は、他のお話や他の小説で、あるいは他の文化芸術作品で、代替可能かもわからない。小説の一部分であるお話のある一部分を取り上げることは、その小説をひどく矮小化させてしまう。むろん一方では、ある作品の受け手が作品に刺激されて得た感情や考えはその者が紛れもなくその瞬間にその作品と出会わなければ得られなかったものであり、その者が発露した表現として尊ぶべきではあるが、他方で、ある受け手の一時の感情なんてものは作品にとってはあまり関係のないことである。つまり、前者は受け手の歴史において作品がいかにあるかという問題であり、後者はある文化体系の歴史において作品がいかにあるかという問題であり、これらは一方がなければ他方もなく相互に干渉しあっているはずなのだが、そこには同時におおきな断絶も感じさせる。逆にいえば、ある小説に対する考えを容易に言葉にするためには、小説を包む文化の歴史に接続させることはひとつの手である。小説のある部分を抽出することが小説を矮小化させるのであれば、その小説をその小説よりも大きな体系に組み込んでしまえばよい。著者の経歴のなかでその作品がいかに現れているか、ある文学者の理論を適用することでその小説にいかなる可能性を見いだせるか、近代文学史の流れにおいてその作品はいかに位置付けられるか、現代の国内情勢においてその作品はいかに受容できるか。こうして大きな歴史に接続させることで作品を語りやすくはなるが、その代わりに、作品に対して言葉を発する動機であるはずの一受け手としての感情のゆらぎは、言葉にされることなく消え去ってしまう。だから、個人の歴史と文化の歴史という両者は絶えず往復することが望まれるのではないか。偶然に生じた瞬間の出来事から事を始め、そのうえで瞬間の出来事なんて過信せずにみずからを空虚になるまで削ぎ落として、蓄えられた知恵と技術を駆使して歴史の重みに到達しようとすること。その地点から、瞬間の私を見つめようとすること。これらの往還によってようやく、受け手と作品の関係が明らかになろうとするのではないだろうか。
 詩や小説という言語表現について言葉を発しようとするとき、そのむずかしさは、言葉を言葉で語ることに由来しているのではない。受け手が何を思い、その思いを発した根拠がどこにあるのか、についてならばおそらく誰にでも容易に語ることができ、なぜならそれは受け手のなかに由来するものだからだ。そこで作品が置き去りになること、作品がもつ歴史が無視されることにむずかしさがある。とすれば、詩や小説を語ることがむずかしいのは、小説をひとつ読むことすら時間がかかることや、詩における言語の扱いが日常的なものとは大きく乖離しているおかげで言語の歴史性に距離を感じてしまうことなどによるのではないか。そこを乗り越えさえすれば、言葉を言葉で語ることほど簡単なことはないようにも思う。では、日記が文化芸術として提示されたときに受け手はいかなる語りようがあるのか、また、日記を文化芸術として提示するには書き手はいかなる手続きを必要とするのか。これに関してひとつ言えるのは、そんなことを考えていたら日記を継続することなど到底できないということだ。

カテゴリー: 日記