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日記210418

 神保町の古本屋へ行く。演劇関連の本を二冊とSF小説の文庫本を二冊買う。デリダの『グラマトロジーについて』の上下巻が三〇〇〇円で売られていて、すこし迷うが、たぶん読もうとしてもさっぱり理解できないだろうから買わずに店を出る。もともとは、〇〇年代の国内作家が書いた中編小説の単行本が数百円程度で手に入らないかな、なんて思って神保町まで足を運んだのだが、この類いの本は見つけられなかった。代わりになるかと思ってSF小説を買ったが、この頃はSF小説を読むような気分でもないし、さいきんはどうも文庫本のサイズ感に読みづらさを感じてしまっていて、まあおそらくすぐには読まないように思う。これは読むとか、これは読まないとか、読めるとか、読めないとか、ほとんど無意識に無根拠になんとなく判断しているが、こうした振る舞いは食べものの画像を見ておいしそうと思う感覚とは近いのだろうか。天丼屋の前を通るとき、おいしそうな香りが漂ってきて、すれ違った若者二人組も、なんかいいにおいがする!と話していた。すずらん通りを適当に歩き回り、次第に脚が疲れてくる。空腹感もあったから、電車に乗って、つつじヶ丘で降車し、柴崎亭というラーメン屋で鴨中華そばを食べる。柴崎亭には月一回程度のペースで訪れているが、ここ何回かは鴨中華そばが品切れで、塩煮干しそばの注文がつづいていたから、ひさしぶりに鴨中華そばを食べられてうれしい。しいたけの味や香りが強く感じられるが、材料にしいたけが使用されているかまでは知らない。兄がしいたけ嫌いだったことを思い出し、ここ三年ほど会っていない彼がいまだにしいたけを避けているのだとすればこのラーメンは食べられないかもな、と思う。かくいうじぶんもたしか中学生の頃くらいまではしいたけがすこし苦手だったが、いつからか気にしなくなった。小学校の給食に出てくる味噌汁に入ったしいたけの食感が苦手の主な由来だったから、給食から解放されたことでどうでもよくなったのかもしれない。というか、成人してからは、食べものの好き嫌いに対してどうでもよさを感じることが多くなったように思う。おいしいものを食べればもちろんおいしいが、だからといっておいしいと感じないものを毛嫌う必要はどこにもなく、じぶんが苦手に思うことはじぶんに理由があって、対象そのものがなにか悪さをしているわけではない。対象はただそうあればよく、苦手と思うならただ勝手に苦手であればよい。それはそれとして、もうしばらく食べものに対して苦手と思うこと自体も少なくなっていて、へんな味だなあとかいまのじぶんには合わないなあとか思うだけで、むしろあえてその変な味や合わない味に身体のほうを合わせていこうとすることもある。味覚に対する快不快は絶対的ではないのだから、食材の腐敗による異味異臭などでなければ、目の前の食べものと身体感覚とをつど調整すればよい話であり、こうした食べられるものと食べるものの両者のかかわりが、生存行為としての食を食文化として昇華させてきたのではないか。反射的に苦手と一蹴してしまうのはあまりに簡単であり、それによって生まれるのはむしろ悪意だったりするから、そう傲慢にならずに、じぶんをやわらげていこうとする態度の方におもしろみを見ていきたい。

カテゴリー: 日記