ウェザーニュースライブ見たさに朝の六時に起きる。七時過ぎに起きても出勤に間に合う。五時から始まっているからほんとうは五時から起きていたいのだが、眠いからそこまではしない。時間に余裕があるから六時半までベッドのうえで横になって、目を瞑りながら、というかほぼ眠りながら、音声だけを聞く。八時前に自宅を出て、十八時に退勤して、勤務先から駅に向かう途中で空の写真を撮ってウェザーニュースのアプリへ投稿する。十九時半頃に帰宅して、食事をしながらウェザーニュースライブを見る。先日、番組出演中に喉を痛めて早退して、それ以来お休みが続いていたキャスターがツイッターで、声帯結節と診断された、と書き込んでいた。話すことを仕事にしているひとが話せなくなることのつらさを、真剣に働いたり仕事をしたりしたことがないわたしはわからない。時間を切り売りするだけの賃労働と、労働までの待機時間。意思や責任と呼びうる、呼ばれうるものはどこにもなく、指示をただこなし、指示がなければ何もしない、それは労働時間であろうと非労働時間であろうと変わらない。わたしは仕事をしたことがない。昨年と一昨年に行った同人誌の制作。あれはどうだったろうか。あそこには意思や責任と呼んで扱っても差し支えないと思えるくらいの振る舞いはあったかもしれない。ではそれが制作と呼びうるような、身体や環境の変容を強いたかといえば、現時点では否であり、今後どこかで芽が生えるかどうかも、結局は今後の身の振りようによってしか決まらない。ただ少なくとも、こうして書く習慣だけは残っていて、じゃあ呪詛を書き殴るように日々の出来事を文章で記録したところで何かがどうにかなるのかといえばそれもまた否であるのだが、ほんのわずかな変化、それも自身の内のみにおけるわずかな変化でしかなくとも、何かが変わったということに希望を抱き続けるしかほかないのかもしれない。どこにいっても傲慢なひと、乱暴なひと、自惚れたひと、他人を嘲笑うひと、総じてダメな連中はいて、そんなひとたちが平気で、当たり前のように、嬉しそうに、無自覚に、ひとを傷つけながらのうのうと生きていることについ苛立ってしまう。こうしてよく知りもしないひとの表面的な態度や言動を見て、苛立ち、批判的な意見をもち、ダメなやつだと一蹴してしまうようなこと自体もまたダメな振る舞いであるにもかかわらず。いくら積み重ねてもなにひとつ善くなったように見えないわずかな変化をそれでも重ねつづけて、いつまでもダメなじぶんをほんのちょっとでもマシにしようとしたり、ひとを傷つけることによって安住しようとする言動が当然に行われる社会や人々の暮らしがほんのちょっとでもまともになるよう努めたり、あるいはそんな夢みたいな願いを手放すことなく、気が遠くなりながらも日々を過ごすしかない。そう思う一方で残念な日常はつづくし、まいにち気持ちが挫けてしまう。努力せずに権力が手に入らないかなと思う。万が一ひょんなことからうっかり莫大な権力が手に入ってしまってもいいように、権力を誤った方へ用いてしまわぬよう、地道に学びを培わなくてはいけない。
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