たとえば一見すると気を衒っただけのように見える表現形式をとるならば、あらわれでた表現の実存を支える論理は通常以上に強烈で強固に構築されているべきであり、また、それはうちに秘めたものとして留められるのではなく、結果の近くに横たわっていることが求められるだろう。でなければ、その外見のみにばかり焦点が当てられ、そう現れてしまったことの必然性や、そう現れてしまうことから遡行的に発見される思考には言及されないままに一蹴されて、一瞬の物珍しさだけを灯して消え去ってしまうことにはならないか。ひとつの対象にかけられる労力が同等ならば、均された見た目のものであればすぐに内性の問題に着手可能であるのに対し、見た目の奇抜さに手数が費やされることによってその奇抜さゆえのわかりづらさを解きほぐす段階にまで至りすらしない。とすると、制作者自身の制作ノートや自作解説なのか、批評家や評論家あるいは異なる実作者による読解、検討、批評なのか、観客による思い思いの談話なのか、どのような形態でも構わないがいずれにしてもそこには制作物を中心とした複数の主体の語りの交差が要請される。従来のコンテクストという権威から逃れて自由になった関与者の態度を引き離さない渦として。あるひとつの制作物をひとりの鑑賞者が孤独に嗜むという態度は、制作物を商品=消費物として矮小化する態度に他ならない。制作物を眺めるとき、そこに鑑賞者自身における制作の過程──文化芸術への接触だけが制作ではなく、私たちが生活を営むとき、あらゆる生き方は文化であり、生きることのすべては芸術である。ある生き方を生きるとき、そこには少なからず制作の過程が生じている──が抱え込まれ、制作が制作を呼び起こすことの連鎖が連なることをもって、消費は制作に接続される。何においてもただそれのみがあるということはなく、ただし文化芸術については例外であるということもなく、複数の主体の声を繋ぎ合わせるメディウムとなってこそ、制作物が物であることのひとつの効果が発見されることだろう。よって従来のコンテクストを逸脱しようとするのなら、従来以上に新たなコンテクストの生成や発見に努めることは避けられない。では自由に振る舞うためのしがらみは、いかにして設定可能であろうか。補助線を引き合うための制作物というあり方について。
日記210530
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