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日記210227

日本でいちばん高い山は富士山 じゃあにばんめは? と投げかけて、一般ににばんめのことは広く知られていないのだ(だからいちばんをめざせ)と説こうとする。
かつてある国会議員が二位じゃだめなんでしょうか と言って批判の対象になったことがあった。
昨日ネットで見た記事に〈花屋なんて、一番に不要とされる仕事だと思ってました〉と書かれていた。
数ヶ月まえの記事には〈コロナ対策「東京一番やってない」 いらだつ専門家〉という見出しもあった。

いくら綺麗事をならべても
なんばんめであること あろうとすること あってしまうこと に
身をまとわずにはいられない
そんな御託をならべたのは
人類史で歴代なんばんめ?

わたしは
なんばんめ?

日本のひとたちのなかで
なんばんめに背が高いのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめにやせているのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめに本を読んでいるのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめにタイピングがはやいのだろう
日本のひとたちのなかで
なんばんめに覇気がないのだろう
日本のひとたちが危機に陥ったとき
なんばんめに救われるのだろう

あると優れているとされるような
どんな要素を調査しても
どれも下から数えたほうがはやいことを
わたしがいちばん知っている
運動会のかけっこで にばんだったのは
もう十五年以上も前のこと
世界のひとたちのなかで
わたしがいちばんわたしの虚ろさを知っている
こんな空洞では 雨宿りすらできません

だけどせめて、
あなたのなかでだけ
いちばんでいさせてほしい と
スプーン一杯の傲慢さでもあれば
食いしばった歯をすこしでも
ほどいてあげることができたのかもしれません

いつだったか、中学校の同級生とひさしぶりに会ってお酒を飲んで話し続けたある夜のことをたまに思い出す。神楽坂のアイリッシュパブでたしか、ジントニックでも飲んでいたはず。それともビールだったかもしれない。おぼえていない。だけど、あるひとことふたことのやりとりだけをたしかに覚えている。

彼女がほしいとか思わないの?
いちばんは気が重いから、にばんめにしてくれるならちょっと考えてもいいかな
なにそれ

なにそれ、と言って相手は気味悪がるような表情をした
ほんとうは、にばんめですらいやなのに
誰かにとっての大切に 信頼に 期待に 必要に 関心に 価値に 救いに 尊さに 思い出に なりたくないから なれないから
ごみをみるような目で
ごみのままのわたしでいさせて
それでも
ほんのちょっとわがままになって
じゅうはちばんめくらいにいられたうれしいだろうなと夢みることもある

全国高等学校野球選手権大会(通称・甲子園大会)ではベンチに入れる、つまり選手登録される選手の人数の上限が十八名と制限されている。強豪校であればあるほどに、山のようにいる部員数から選ばれた十八番目の選手ともなれば野球選手として相当の技術を持つことだろう。十九番目から百何番目まではスタンドで声援を送ることしかできず、甲子園球場の土を踏むことは許されていないのだから。その差は天と地ほどに大きい。しかし、全国高等学校野球選手権大会では、試合中に選手交代が行われる機会はそう多くない。プロ野球のような年間通したリーグ戦であれば、選手の疲労や日々のコンディションを見極めて長期計画で采配を振ることも優勝に向けたひとつの鍵となるが、短期間のトーナメント戦で行われる全国高等学校野球選手権大会ではそんなものは必要ない。チームでもっとも優れた投手が全試合、全イニングを投げ切って、チームでうえから八番目までの選手たちが全試合、全イニングを打って走って守って、それで勝てるなら万々歳である。たかだか一ヶ月で終わる大会なのだから、九人だけで勝ち切ることもきっと不可能ではない。連日の試合出場で身体を酷使した挙句に故障しようとも、高校球児でいられる期間など三年しかないのだから大した問題にはならない。現に多くのチームはそれに近い方針で試合を進めている。したがって十八番目の選手は試合に出場する機会をほとんど得られない。十八番目の選手に与えられた主な役割は選手として試合に出場し活躍することではない。十八番目の選手はベンチ内で裏方、雑用に奮起し出場選手を支えることであり、それで試合に貢献した気になって、勝って笑ったり、負けて泣いたりするのだ。

中学生と高校生だったころ 陸上競技をやっていた
運動神経がわるく、選手として見込みのないわたしは
大会の結果なんてやるまえからあきらめていて
あきらめる以前に期待もしていなくて
大会運営の補助員として駆り出され
スターティングブロックやハードルを並べたり
走高跳用のマットを運んだり
指示された雑用をこなしながら
がんばってるひとたちを
遠くから見てるのが好きだった
あちらのステージに上がることはないのだという手応えを感じるのが好きだった

身近な部員が走り競っているときの表情を
トラックの内側からたまたま
間近でみたあの瞬間 わたしの声は
水族館みたいなガラスの壁にさえぎられた

責任を負うことがこわくて
世界に干渉してしまうことの重さに耐えられなくて
耐えられる気がしなくて
逃げかわして
鑑賞者を気取ってしまう
ごみのようなわたしを
ごみを見る目で一瞥して
ありのままのわたしでいさせて
それでも
ごみ収集場でくたびれる
年季の入ったこわれたガラクタのように
横切るあなたのほんの一瞬の目と心のなかにいさせてほしいと
そう願うのは あまりに愚かでしょうか
世界のひとたちのなかで
なんばんめに愚かでしょうか

カテゴリー: 日記