連日発表される数字の増減に飽きもせず嬉々としていた連中も、この頃の著しい減少傾向に倣うように話題の熱量が低下しているようではあるのだが、だからなんだという話である。そもそもがくだらないあれやこれやに斜めから一丁噛みしてじぶんは其奴らとは違うのだといい気になること自体もまたくだらない。低俗な環境で馬鹿者らに囲まれながら愚劣に生きる一愚民たるわたしにも平等に選挙権が与えられていて、来るべく一〇月三十一日の投票日に向けてインターネットは加速する。ネットを見ながらふと、そういえばしばらく髪の毛を切っていないなと思って予約サイトにアクセスすると、府中に住み始めてからのここ四年間ずっと髪を切ってもらっていたスタイリストのひとの名前が消えている。当該人物の氏名で検索をかけるとその美容室と以前勤めていた美容室とがヒットするくらいでめぼしい検索結果は得られず、どこかべつの店に移ったということではなくもしかしたらたんに辞めたのかもしれない。もしくは辞めたばかりでまだつぎの勤め先が決まってないとかそういうこともあるのかもしれない。いずれにしても他人の事情などどうだってよく、憶測を繰り返したところで不毛さが増すだけで、わたしはただこの伸びた髪の毛を切ってくれるひとを失ったことについて憂いていればよい。こんどはインスタグラムを開いて再度氏名を──ローマ字表記で──検索をかけるとそれらしいアカウントが出てきたが非公開だったからどんな投稿がされているかまではわからない。しかしフォロー申請するほどのことでもない。インスタグラムを開いたついでにタイムラインに並んだゆるキャラの画像やラーメンの画像やハムスターの画像や湯に浸かるカピバラの動画やミュージシャンのライブ画像やグラビアアイドルのオフショットやちびまる子ちゃんのグッズの画像や誰かが読んだ本の書影やプロ野球選手の引退セレモニーの画像なんかにいいね!をつける。表示される順に沿ってろくに投稿内容を確認せずにいいね!をつける。いいね!いいね!いいね!いいね! 表示されては消えていくハートマークには何もポジティブな意味などなく、形骸化したいいねの蓄積は知性や理性の欠如の象徴でしかない。福岡ソフトバンクホークス・長谷川勇也選手の引退はじぶんにとってもひとつの時代が終わったような気持ちにさせられた。引退会見を動画で見た。引退試合前の声出しを動画で見た。引退試合の最終打席を動画で見た。最終打席を一ゴロで終え、悔しそうな表情をあらわにする様子を動画で見た。その直後に打席に入った甲斐拓也が打った本塁打を動画で見た。九回表に同点に追いつかれ、結局引き分けで試合を終えたことをプロ野球速報で見た。パソコンやiPhoneからインターネットに接続し、そこですべてが行われ、そこですべてが完結する。家から一歩も出ずに傍観者を気取る。馬鹿馬鹿しさを薬に夜を誤魔化していく。髪の毛は伸びる。季節は変わる。この頃急に寒くなり、からだを動かすのもどこか億劫だ。
通勤電車がやけに混んでいて、知らないひとらとからだが触れている。駅へ向かう途中はあんなに寒かったのに、いやな熱気がこもっていて気持ちがわるい。眼鏡が曇って視界がぼやける。電車が揺れてあっちに寄りかかりながらこっちから寄りかかられる。揺れる。疲れる。揺れながら本を読む。密着した周囲のひとらの感触を無視して本を読む。けれどやはり疲れる。疲れた。電車を乗り換えた。座席が空いていてから着席する。座るとすぐに眠ってしまった。金曜日のことだった。
感染症が世にもたらした影響。それは大なり小なりあるはずで、じぶんの目に見えずとも至るところに変化は生じているのだろう。というのも、さいきんのじぶんの業務内容を振り返るととある研修の講義動画のディレクションや編集作業に精を出している状況であるのだが、所属している組織は映像関係の業種からは遠く離れていて、むろん映像制作に係るノウハウが培われているわけでもない。にもかかわらず、業務内容として映像制作と呼びうるものが発生していることは、他ならぬリモートなんとかとかオンラインかんとかとかの波に乗っているからであり、要するにコロナウイルスへの対応というわけである。いくらリモート勤務が推奨されても通勤時の電車がある程度混雑していることもひとつの象徴なのかもしれない。急にリモートでやれと言われても組織はその体制やら設備やらを整えなければならないし、組織に従属するひともまた通信環境やらデスク周りやらを整えなければならないし、それで済めばいくらかましなほうで、デジタルトランスフォーメーションだなんだといくら叫ぼうともひとびとのなかにはまだスマートフォンこそ所持しているがせいぜいLINEで連絡をとるかYouTubeやSpotifyで動画や音楽を流すかソーシャルゲームで暇をつぶすか程度にしか利用していないという層も、肌感覚では多いような気がする。というか、スマートフォンを日常的に使用していることとパソコンを人並みに(オフィスソフトを普通に扱える程度に)使用できることはイコールではなく、リモートなんとかとかオンラインかんとかとかで扱われるのは主にノートパソコンであろう。こと自身の業務に関しても、オンライン上で研修をやるぞと意気込んでいくら運営側が万全の準備を整えたところで、結局のところ受講する側の環境が十分でなければ成功には至らず、物理的な会場に参集する従来の形式と比較すると、電車に乗って会場まで来てしまえばあとは何が起ころうと運営側の責務として気楽に参加できていたものが、自宅や職場からウェブで参加となると例えば使用機材の動作不良や通信状態不良がとつじょ生じた場合もすべて受講者自身の責任として片付けられてしまうのである。そこにまたべつの問題として、Zoomがどうだとか言われてもよくわからないというひともいるのだからとにかく足並みは揃わない。電車の乗り方くらい誰もがわかる、事前に地図を渡して場所を示せば誰でも来れる、というレベルで誰でもインターネットが使えるとはならない。すくなくとも、現状はなっていない。誰でも使えるという確固たる前提がないにもかかわらず、非常時の責任は個人のみに生じるものとして扱われ、当の組織は素知らぬ顔をするどころか蔑むように振る舞うのである。こんな馬鹿なことが当たり前にあってはならないと思うのは、じぶんだけなのだろうか。職場で隣に座るひとはいつも関係者を侮蔑し、嘲笑し、呼吸をするように他者への揶揄や拒絶を繰り返して悦に浸っている。時には隣国へのヘイトをつぶやく。それを聞いたべつの者は適当に同調してへらへら笑っている。こんな馬鹿なことが当たり前にあってしまっている日常があり、そこに他者への配慮なんてものはない。誰もが自らに責任が伴わないことを望んでいる。じぶんが身を置く環境がそんな状態だから、関与者のなかで責任がどう分配され、それに対し関与者がどう反応するかなんて、リモートがどうとか提唱するひとらもろくに考えもせず気にしてもいないのではないかとどうしても思ってしまう。自粛だなんだステイホームだなんだもきっと同様で、ひとを自宅に押し込めるということは個人の周辺で生じた問題を個人の問題として片付けてしまう性質を持つのだと散々指摘されてきたことではある。とりわけ弱い立場にある存在、たとえばこどもの立場を考えれば、家庭の経済格差、経済状況がもたらす学習環境の格差、あるいは親から子への暴力、虐待等々はステイホームによってより顕著となるだろう。個人の境界を強化する動きは弱者を苦しめる。じぶん以外の誰かに対する配慮がないから簡単に家から出るなと言えてしまう。そう思うと、じぶん以外の誰かとは、あるいはいわゆる「社会的弱者」とは、「情報弱者」や「ネット弱者」も含めていくべきなのだろう。隣国へのヘイト発言を真顔で言うようなひともメディアリテラシーやネットリテラシーと呼ばれるような判断力の弱者であるといえばもしかしたらそういう見方もできるのかもしれない。ゆえに、その発言だけを取り上げてこいつの言動は差別的でよくないものだと判断することは安易なのかもしれない。誰もが様々な側面における弱者性を抱えているはずなのだ。しかしもう疲れた。これはダメだろうと思ったことにこれはダメなのではないかと述べた時点ですでにダメだと感じた対象とやっていることは同等だ。また、これはダメなのではないかと述べた時点で、ダメだとされた理念や思考や振る舞いに与する者は自分がダメだと言われたのだと捉えて被害の立場に身を置くことだってある。だとすればもう不毛としか言いようがない。相容れないのならただ相容れない存在なのだと割り切って、関心などもたず、街の風景と同化させ、適当に無視するしかない。むろん世の中にはいろんなひとがいて、ある制度を考える場合などにはいろんなひとを無視するわけにはいかないが、それはそれとして、一個人が一個人と接するときには相容れなさと直面する場合は往々にしてあり、相容れなさと無理に付き合う必要はどこにもない。
コミュニケーションがゲームだとすれば、一見同じ言語を用いていても、プレイしているゲームが同じとは限らない。プレイステーションでアクションゲームをプレイするひともいればロールプレイングゲームをするひともいる。アクションゲームしかプレイできないゲーム機は不自由だが、さまざまなゲームがプレイ可能ななかでアクションゲームしかプレイしないひとがいるのはなにもおかしなことではない。では仮に、じぶんがプレイするゲームの需要層が少なく、プレイヤーもなかなか見つからず、ゲーム自体がなかなか成立しないと感じるのであれば、やるべきことはただひとつで、たんにじぶんがすきなゲームの需要を広げる努力をすればいいだけのことである。その過程でたとえ失望を感じることがあったとしても、そもそもそこに望みなどなかったはずではないか。
先週、酒を飲み過ぎて自宅の便器に嘔吐をし、そのまま便器の横で寝た。翌朝は二日酔いがひどくもう金輪際酒など飲むものかと思った。そんなことがあったからきのうは友人宅で酒を飲んだが飲酒量を控えた。適度に酒を飲めば楽しく時間を過ごせ、体内に溜まったアルコールが後を引くこともない。言うまでもなく、酒がよくないのではなく酒を飲みすぎることがよくないのであり、酒を飲むのならつねに節度を保つ必要がある。
この一週間は空気がよく冷えていて、寒い日が続いた。しかしきのうは空もよく晴れ、あたたかな日差しと冷たい風が心地よく感じられた。広場では複数組の親子がサッカーをしていて、そのすぐ近くで散歩中の犬もよく走っていた。日が沈むとさすがに寒く、寒さにつられるように芋焼酎をお湯で割った。湯気に舞う芋の香りからは冬を想起させられた。まだ十月ではあるが、もう十月でもある。どこに留まることもない移ろいのさなかで時折石を置くような感触に身を委ねている。
日記211024
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