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日記210315

 何も根拠がないことをとりあえず大袈裟に言い切る様子はおもしろい。言い切っちゃうとなんとなくかっこいいし。寝れば治る。筋肉は裏切らない。巨人軍は永遠に不滅。世界を征服しに行こうぜ。人の夢は終わらねェ。あなたを愛してる。安易に言い切ってしまうことの軽薄さを嘲笑してもいいのだが、スパッと切ってて豪快だなあおもしろいなあと受け止めるのがほどよい気がする。皮肉でもなく冷笑でもなくちゃんとおもしろがれたらたのしいように思う。アフォリズムは祈りに近い。おもしろいという真剣さで受け止めて、いつか祈りが叶えばなおうれしい。おもしろがるというか、興味深く寄り添うと言うほうが適切だろうか。
 一方で、言い切ることは記号化の暴力でもある。おもしろがって大雑把に刀を振り回していれば、当然ひとを刺してしまうこともある。筋肉だって疲れて気を抜いていたり誘惑に負けたりして、結果的に誰かを裏切るような事態を招いてしまうことはあるだろうし、裏切らないと周囲に思われてしまうことの圧力を常に感じてしまう状況が作り出されてしまっているとしたら、それは筋肉への暴力である。だから、言い切る側が、これはあえて根拠なく大袈裟に言い切っているのだとメタ視点で理解しながら言い切るだとか、あるいは、生身のひとに対しては言い切らないようにするだとか、刀の取り扱いにはいくらか注意が要るだろう。むろん、ここまで書いたことは一切の根拠を持たず大袈裟に言い切っているだけであり、以下に続く文章も同様である。

 今朝、夢に東浩紀が出てきた。エヴァンゲリオンの映画についてうれしそうにたのしそうに語る東氏に対し、ぼくエヴァってまったく観たことないんですよねと夢のなかの私は述べる。東氏は驚愕しながら、観ないとかないから、観るしかないんだよ、と冗談めかしく非難する。
 さいきんは東氏が夢に登場することがたびたびある。私の無意識が何をしたいのかは知らない。ただ察するに、そもそも私の交友は広くなく、頻繁に会う機会のあるひとといえば職場のひとたちくらいである。その職場のひとたちとも勤務中の事務連絡以上のコミュニケーションはほとんどしないし、常にマスクをしているからろくに顔も見たことがない。まともに、かつ、何度も顔を見る相手はこの頃月一で会っている友人くらい。いまとなっては他人の顔を見る機会はネット上での方が多い。ではネット上で見かける顔が誰の顔かというと、ゲンロン完全中継チャンネルに加入し東浩紀氏が登壇する動画を連日見ている私にとってのそれはやはり東浩紀氏なのである。ここ半年でいちばん長く顔を見ている相手は東浩紀氏であるに違いなく、この頃の私が抱く人間一般を象徴する標準的な顔のイメージが東氏の顔である。それを思えば、何度も夢に出てくることも納得がいく。

 昨日はネットでやりとりしているひとと初めて直接顔を合わせて数時間お話しをした。一昨日はネットでやりとりしていて、以前に一度だけ会ったことがあるひとと数時間通話をした。今日は週五で顔を合わせる勤務先のひとたちと会い、特に話はしなかった。会ったこともないネット上のひとは顔も素性もよく知らないし知人とか友人とか呼んでいいのかよくわからないなとたまに思うが、じぶんの交友関係を振り返るに、テキストや声のみで関係しているひとたちの方が相対的には知っているひとたちではある。顔を知らないことはこのご時世では問題にならない。ではインターネットで交流している彼らは私にとって知人や友人と呼びうる存在なのだろうか。
「知人」や「友人」とカテゴライズすること自体にどんな意味や効果があるのかは知らないが、利点といえばせいぜいこうして日記などを開かれた場で書こうとする際に容易に匿名性を保ちながら端的に記せて楽であることくらいだろうか。ではネット上でのひととの出来事を日記に記そうとしたときに「知人」もいまいちピンとこないとして、仮にたとえば「インターネットのひと」と記すとしても、私にとってインターネットのひとであっても別にそのひとが骨の髄からインターネットのひとであるはずもなく、まず何より現に生活しているひとである。関係性を記号的に処理しようとするとき、どうしても非対称性が問題となってくる。それはさておき他人との間で起こった私的な出来事を開かれた場で書くべきではないのではないかという疑問は一旦横に置いていただきたい。
 ネットだから知らないということも、何度も会っているから知っているということもない。繰り返すがこの頃の私がいちばん知っているひとは、外見的にも思想的にも東浩紀氏である。結局、いかにどれほど知っているかに重きをおくと、比較的身近にいるひとよりも遠くにいる著名人の方が、私にとっては親しいひとになってしまう。しかし言うまでもなく、東氏は私のことを知らないため、私は東氏と知り合いではない。しょせん私が知っているのは、私の内面で生成されたメタ東浩紀でしかない。こうなるとだんだんひとを知るということが、現に関係することや親しくすることにおいてさほど重要ではないようにも思えてくる。そうだとすると相対的に知っているからといって、そのひとらを知人や友人などと呼べはしない。ひとと知り合うことにおいて鍵となるのは、「知り」ではなく「合う」の方だということになる。いよいよもはや何をもってコミュニケーションが行われ、そこから何をもって親しみを得ているのかもわからなくなる。どうせ何もわからないのだから重々しく考えず、とりあえず適当に「知人」とか「友人」とか言い切ってしまえばいいんじゃないかと、半ば強引に冒頭に回帰させてみると、それらしく文章の終わりに向かっていく雰囲気を出せてよい。Instagramに「親しい友達」という機能があり、他にもっといい名はなかったのかと常々思っていたが、あれもまた、「親しい友達」と言い切ってしまうことのおもしろさの提案なのかもしれない。
 いっそ先人を見習って、ここで書かれる日記の登場人物をすべて「エヌ氏」で統一するのはどうだろう。その場合は私自身もエヌ氏とすべきだろうか。

カテゴリー: 日記