たとえば、電車の中で交わされる会話の一端を耳にしたりして、ありさはいまよりももっとかなしみを、あきらめに似た気持ちを強くかんじていたにちがいない、東京がこんなにも変わっていないこと、変わろうという意思が街を変容させるに至るだけの多数のものにはならなかったのだということに。
岡田利規「ブレックファスト」
昨日のだるさが変わらず横たわりつづけていて、閉めっぱなしのカーテンの向こうでは変わらず雨が降りつづけているようだった。頭もいたくて動けない。ネットを見ていると、湿度と頭痛の関連を述べるツイートが注目を集めているらしく、書かれていることを鵜呑みにして冷房を除湿に切り替えた。低気圧と頭痛を含めた体調不良の関連はここしばらくのトレンドだったが、それも少し細分化されてこんどは湿度かと、物事の原因は多面的であるにもかかわらず、どうしてもひとつの事象に定めては、それを理由にこうであるのだというひとことを抱えて安心したがるわたしたちの脆さ、みたいなことを考える。わたしはいかにしてわたしたちとして束ねられるのだろう。せめてリラックスしようと浴槽に湯をためて、からだを温めながら岡田利規『ブロッコリー・レボリューション』を読んでいて、「都市の意思」というフレーズがよぎった。先日の参院選後、例によって右も左も問わず、じぶんが支持する政党に票が集まらないのは民度が低いせいだといった旨の主張がツイッターにはあふれていた。誰もが自らにとっての正当性を抱えていて、それらをぶつけあったところでどちらかが考えを改めるなんてことはおそらく多くはない。そう考えていることにはそう考えるようになっただけの経緯があり、その経緯はその個人の生活そのものに内包されているはずだ。個人の生活を否定することは、他人はもちろんそのひと自身でさえできない、できようがあるのかもしれないが少なくともむずかしいことには間違いない。とはいえひとには考えが変わることも往々にしてあるわけだが、それも結局はAであると思っていたことがBであるのだと「気づく」ということしかきっかけにはならないように思う。そしてその気づきは、Aと思っていたことが誤りであったという理解をもたらすのではなく、Aであると思っていたが実は最初からBを志向していたのだと過去の認識から根こそぎ改めることをもたらすのではないか。個人の意思や生活が一貫性を保とうと努めてしまう性質を持つとするならば、では都市はどうなのだろう。むしろ個人の意思や生活を左右するであろう都市の意思はいかにして変容するのだろう。社会を変えたい、変わってほしいと願うとき、向きあうべきは都市である、という方向があってもよい気がする。というか、相容れない個人を責めても仕方がなく、社会というくらいだからきっと都市を考えることのほうが先立つはずだ。風呂からあがって買いものをしようと外に出ると、思いのほかしっかりと雨が降っていて、閉めっぱなしのカーテンの向こうのようすはわからないものだなと思った。