今朝見た夢にまた東浩紀氏が登場した。これで三日連続だ。しかし夢の話ばかり書いていてもおもしろくないのでこの話はこれでおしまい。
日記に書くべきこととはいったいなんだろう。一般に日記といえば、その日に起きた出来事を書き連ねることが多いのだろうが、私の場合はその日に思ったことや考えたこと、もしくは感情の浮き沈みばかり書いているように思う。それゆえに「と思う」や「な気がする」などを用いてあいまいに締められる文も繰り返し書かれる。毎日毎日あいまいさのなかを泳いでいる。
現実に体験した出来事が描写されず、より内面的な思考や感情ばかり書いてしまうのは、たんに記述するような出来事に遭遇していないことに由る。粛々と労働の勤しむ日々にドラマチックな場面などあるはずもなく、平坦な日常にあることないことこじつけて日記の上でだけドラマチックな一日を仕立て上げてもよいのだが、そもそも日々にドラマを求めているわけでもない。仮に誇張した一日を書こうとしても、もとより私は嘘をつくのが苦手で、ありもしないドラマチックな一日をあたかも体験したかのように記述することは難しいように思う。
ドラマチックな一日。感動的な、劇的な一日。そんな日がみずからに降りかかってくるとしたら、はたしてどんな出来事が起こるだろうか。道端で偶然ばったり東浩紀氏に遭うとか、そういう感じだろうか。それはまあ驚くかもしれないが、ただ著名人に遭遇したところで劇らしさはどこにもない。劇的という以上、一時的な驚きの体験をするだけでなく、それなりに道筋の立ったエピソードであることが求められるし、それなりに道筋の立ったエピソードをわずか一日のうちに求めることは浅ましいように思う。平坦な一日をただ持続する。繰り返す。飽きても続ける。繰り返す。だって繰り返すことしかできないのだから。そういえば、東浩紀氏が先日行った配信でかっこいいことを言っていた。〈必然に時間がかかることを待たなければならない〉。
とはいえ試しにドラマチックな一日を考えて書き出してみようかと少しばかり考えてみたが、やはりできなかった。想像力のなさはもちろんのこと、己が考えるドラマチックとやらが可視化されてしまうことへの恐怖が書く行為に抵抗を与えてくる。私は私が書けることしか書けない。私が書けることは私が書けることでしかない。書きたくても書けないこと、書こうと思っても書けないこと、書けるけど書かないこと、書けるけど書けないこと、こうした文章は私の手で書けそうであっても、私の手から書かれることはない。私はじぶんにとって抵抗の少ない文しか書くことができない。
私には書けない文があるように、私には読めない文がある。日頃から見聞きしている日本語で書かれているにもかかわらず、読めない文がある。語彙が難しい、文脈を知らない、知識が及ばない、想像が追いつかない、リズムが合わない。自身の至らなさを原因の大部分に、私には読めない文章が多くある。いま、ボルヘスの『砂の本』を読んでいる。文化的背景や(固有)名詞のわからなさや類型化できないエピソードに戸惑い、本来文字が表象しようとするイメージに到達することができず、ただ文字を文字として漠然と読んでいる。わからないまま文字を追っている。わからない文をわからないものとして読んでいる。こうした情けない読書態度から、みずからの内に類型化された概念や意味情報しか読み取ることができないのならば、いったい何のために本を読んでいるのだろうかと自省することもある。本だけではない。私が目にするあらゆる情報に対して、私は私自身を見ることしかできないのではないか。そんな不安がある。細やかな差異やわからなさを無視して、じぶんにとって類型化可能な性質だけを抽出し、知った顔を装う。そんな暴力的な振る舞いをしてはいないだろうか。いや、きっと何度も、到底数え切れないほど行っている。していないはずがない。というより、おそらくそうでしかいられない。傍若無人なわかった振り。それを思えば、わからない本をわからないまま読み続けることもそれなりに大切なことのように思う。わからないから読み続ける。わからないから手元に置き続ける。わからないまま読み続けていれば、いつか何かをきっかけに少しわかるときが来るかもしれない。そうして生じるわかりというのは、じぶんにとっても重要で必然的な気づきになるんじゃないかと思わなくもない。必然に時間がかかることを、私は待たなければならない。