昨晩から続く抑うつ感が、朝になっても消えておらず、それどころか余計に重苦しいものとして頭のうえからのしかかっている。そのせいで、前日には朝イチで洗濯機を回そうと思っていたことを夕方になって思い出し、どうにか身体を起こしてワイシャツとか靴下とか明日からまた身につけるだろう衣類を洗った。
ここのところ自らの死を願う時間が増えている。なんのために、だれのために生活をしているのか、意味を求めたところでどうしようもないことを承知しながら、しかし意味に寄りかかれることはやはり安息でもあり、意味に立脚し、未来を夢みて、過去を参照し、現在を見つめるという過程によってようやくいまが輝き出すのだとしたら、意味も未来も見えないいまの状態、状況をどう受け入れたらよいのだろう。何かを得ていた試しなどないはずが、なぜか喪失感だけを抱いてしまう。強烈な喪失感の原因を意味に求めることでどうにか不安を和らげようとするが、そんなことに特段の意味も効果もない。具体的な迷いや不安があるわけではない。あるのはただ漠然とした不安感のみ。だが、死を願うにも意味を求められるのだとしたら、もう打つ手がないではないか。迷いや不安がなくとも自らの死を願ってしまうことくらいある。ただ、なんとなく落ち込み、そのなんとなくが思っていた以上に持続し、つい死に憧れてしまうことくらいある。手応えのない日々に心身は消耗して、消耗するだけの時間が無限にも思えるようなこの先の長い期間が、終わりの見えない真っ黒な空間に延び続けている。そんな途方のない悪夢がはやく終わってほしいと願うのは、なんら不思議なことではないではないか。そこに意味なんてなくて構わない。だから、実は皆、同じような思いを抱えているのかもしれない。街を歩けばすれ違ういたって平気そうな彼ら彼女らも自らの死を願ったりしているのかもしれない。それなのに自分だけが、こうして無力を言い訳に何もできずにいる、その可能性が余計に苦しい。いっそこのいまも、真っ暗で真っ黒になってしまえば楽なのにと、そんな思いとは裏腹に、いまが着実に訪れていることがひどく憎い。
だけど結局、わたしは自ら死を選ぶことはない。逃げ癖の染み付いたわたしにはしょせん死を願うことしかできない。死を願いながら、こうして人目につく可能性のある場所で思いの丈を書き殴り、助かろうとすることしかできない。助かりたい。助けてほしい。この文章を読んだ誰かに助けてもらいたい。どうすれば助かるのかわからない。それが苦しい。助けてほしいと思いながら、助かり方がわからない。助かり方がわからないから、ひとを頼れない。なぜ助かりたいかもわからない。なぜ助けを求めてしまうのかもわからない。だから、死と助けを同時に願うことしかできない。助かりたい。
そんなことをぐるぐると意識し始めたきっかけは、二月五日にお気に入りのラーメン屋に行ったときだったと思う。その頃から心身は不安定な状態であり、少しでも気分転換をと思い向かったラーメン屋。ラーメンを食べている最中は素直においしいと感じ、満足感を得られていたはずが、食べ終わり、店を出て、電車に揺られ帰宅する過程で少しずつ虚しさが募り、おいしいからなんなのだと、十数分前の幸福なひとときが途端に憤りと苛立ちに転じてしまったのだ。かつてそのような経験をしたことがなかったから、いまの自らの状態はよほどよくないのだなと直感した。それからいままで、一時的なたのしい感覚やうれしい感覚こそ得られても即座に落ち込み、苛立ち、虚しくなり、悲しみに溢れ、どうしようもなくなり、どうでもよくなり、すべてを、自分に関するすべてを見切って、あきらめて、放り投げ出したくなってしまう状態が続いている。
わたしは助かりたがっている。そう直接は言わずとも、ネット上で文章を書いて、あるいはSNSなどを使ってなんでもないような投稿をして人目を伺うことで、誰か助けてくれないだろうかと期待している。無様なほどに必死に助かろうとしている。死を願いながら、みっともなく助かろうと足掻いている。仮に、万が一、偶然的な事故などで死への願いが叶ったとき、その足掻きがどうにか助かろうと生きたわたしの証左になればいいと、そう思いながら足掻いている。生きようとしている。
溺れゆく毎日に、身勝手で都合のよい期待と空想を求めてしまうことをどうか許してほしい。
そういえば今日は食事がまだだ。
日記210228
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