昨日はおそろしいほどに、もしくは、いま思えばおもしろいくらいに気が沈んでいたが、その時点においては身に迫るあまりに真剣なものであるのだから、結局一時の落ち込みに対しては耐えられるかどうかでしかないのだろうなと思う。いかに耐えるか、なんて助かる術を考えたところで答えはないし、答えらしきものに辿り着いたとしてもきっと使い物にならないだろう。小手先をかましている余裕はないのだから。
頭のうしろあたりが多少軽くなったのは、昨晩に東浩紀氏の配信動画を見ていたときだ。氏の語りはかっこよく、そしてあたたかい印象を受ける。どうしようもない世を憂いながら、しかし積極的に世を変えようと躍起になるのではなく、むしろあきらめており、そのあきらめによって余計に氏の思想が愚直に、誠実に、何よりもまっとうなものとして、それでいてきわめて論理的に、確かな知性に基づき、かつ明瞭に、時にユーモアを交えて、そうして伝えられる言葉に力強さを感じる。氏の思想と、そこから展開される姿勢や言葉に救われるひとはきっと少なくないのではないかと思う。真剣に世を生きているひとは数少ない希望だ。
ところで、noteにはマガジンという機能があり、それを利用してこの頃の体調不安定期に書かれている日記をひとまとめにしてみた。タイトルの設定を求められたから「ありもしない救済を求めて」とした。むろん『失われた時を求めて』に引っ張られているのだが、わたしはまだプルーストを読んだことがない。今後読むのかもわからない。たぶん読まないのだろう。プルーストを読む人生と読まない人生とでどちらが豊かであろうかと、少し考えている。またいつか激しい希死念慮に襲われたとき、「まだ『失われて時を求めて』も読んでないのに死ぬの?」とだれかが言ってくれたら、それもそうだなと我に返るかもわからない。
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カテゴリー: 日記