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日記210305

昨日の日記を書き忘れてしまったが、別に毎日書こうと決めたわけでもなく、それがどうしたという話ではある。ただ、こうして入力画面を開いてしまえば、あとは適当に文字を並べるだけで日記というていを成した文字列が完成するのだから、日記を書き忘れてしまったことは単に怠惰の現れということでもある。ここ数日にここで書いている文章は、ほんとうに、心の底から何も考えずに書き出されている。思いつくままに書き出されている。はちゃめちゃに適当である。だから、書く労力はほとんど強いられていない。読む価値もない。実際、誰も読んでいない。
文章を書くということがこれほどに負担なく行えることの大部分は、書く行為のテクノロジー化に依っているのだろうと思う。これがペンと紙で書いていたら、何も考えずとも身体的な労力をそれなりに要してしまう。紙の日記を始めようとしたことが何度かあるがどれも数日でやめてしまった。それも書き続けることの大変さ以上に、あるいは、自らの飽きっぽさ以上に、ペンで書くことの大変さに身体が追いつかなかったのだろうと思っている。文章が適当に、雑に、無責任に、投げやりに書けてしまうことが、個人にとって、人類にとって、どれほどの幸を生み、どれほどの不幸を生んでいるのかはわたしにはわからない。

なんとなく思うことがあり、二年前に制作した文集を少し読み返した。みんな文章がうまいなと思った。自分にはこうした文章は書けないなと思った。自分が書いた文章を読み返して下手だなと思った。このころに比べていま文章がうまくなっているということも、さらさらないなと思った。自分は文を書くのが下手な人間なんだなと思った。だけど、考えも言葉遣いも表現技術も稚拙でおぼつかなく、それゆえに他者に加害を与えてしまうことや他者から見放されてしまうことに恐怖を抱きながらも、愚かであることや誤ってしまうことを避けていてはそれらを乗り超えられない──愚かさや誤りをまずは自ら受け入れなければならない──のだと強く、希望を見るように、祈るかのように書かれていて、その態度はいま現在も夢みていながら到達できていないと同時に、やはり自分にとっては必要でどうにか得なければならないものであると感じ、まあ、なんというか、つまり平たく言えば、劣等感にどう折り合いをつけて生きていくかについてこの先もずっと悩んで、考えて、試して、失敗して、後悔して、苦しんで、そうやって内にこもって生きていくのだろうという気がした。どうにか外に出たい。

カテゴリー: 日記