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日記210306

土曜日だが勤務があった。夕方くらいに勤務を終えて、スーツ姿のまま映画館へ向かった。通常料金で映画を観るとけっこう金がかかるなと思った。観た映画について安易になにか言葉を並べようとすると、その行為によって一方的に〈観る〉側であることが猛烈に意識されるような気がして、なにかを語る気が失せる。というか、映像についてなにかを語れる言葉などないような気がしてくる。「映像それ自体」なんて映像を神秘化しているだけだと言えばそうなのかもしれないが、映像それ自体が持つ尺度と観ている観客=映像の外側の世界が持つ尺度はやはり異なるのではないだろうか。文化は語りによって育まれることは確かだと思う一方で、観客が観客の論理で作品を抑圧するようなことは文化への冒涜だ。
夜、『CLANNAD AFTER STORY』の第12、17、18話を見返して大号泣した。思ってもいなかったほどに泣いた。物語のカタルシスによって号泣することは身体を日常の抑圧から解放することであると思う。抱えていた抑圧を剥がされたところに、驚きがあり、感動があり、学びがあり、そうして観る者の身体が書き換えられて、観る者にとっての世界の在りようまでもが変わってしまう。それが文化の──とりわけ表現文化の──すばらしさだ。

カテゴリー: 日記