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日記210314

 相変わらずやる気なく時間を過ごしながらインスタグラムを眺めていると、ネット上でいくらかやりとりをしているひとが茶をする相手を募集していたから、じぶん暇ですよとメッセージを送った。じぶんから誘いをするのは苦手だから、募集に手を挙げる方式はとても助かる。さまざまな募集に対し気軽にほいほい手を挙げるのは、それはそれで軽薄な態度にも思えて、そんな軽い輩に思われたくないとかなんとか言い訳してじぶんの重みを守りたくもなるが、少なくともいま現在、重いとか軽いとかの判定をしているのは自分自身以外になく、誰に対してなにを守ろうとしているのかよくわからない。だから手を挙げたくなったらとりあえず挙げるといい。いまのじぶんに求められているのはそうした自然さであり、また、脱ひきこもりを掲げるこの頃において外に出る機会やひとに会う機会は多ければ多いほどよい。疫病の流行りもあって世の潮流としてはひとと会わない方に舵を切るのが正しいのだろうが、ひとにはひとの事情がある。
 指定されたカフェに到着すると、じぶんが移動している間に先方は偶然知り合いと出会ったらしく、初めて見る顔のひとが二人いた。不思議な感じがした。軽く挨拶をして、さてどうしようかなと様子を伺っていると、じぶんピン芸人やってるんですよと口を開いたのはネット上でやりとりをしたことがない方だ。そこからの展開がまあ凄まじく、その彼は惜しげなくネタを披露し、惜しげなく制作論を話し、それらがじぶんにとっては逐一深刻なものとして突き刺さるテーマ性を帯びており、怒涛の勢いで繰り広げられる語りを聞きながら、とにかく感動した。刺激を受けた。こんなにすごいひとが世の中にはいるんだなと素直に思った。メディア越しであればすごいひとなんていくらでも目にする機会があるが、間近で、目の前で、というか隣の席で、直に空気の振動が伝達されることによってその存在を体感するという経験はいまだかつてなかったかもしれない。身の回りにも尊敬する知人友人はいるが、ひとと話してここまでの衝撃を受けた経験はざっと思い返すに見当たらない。
 正常であること。異常であること。ぼくらは多くの場合、自らは前者であると思い込む。お笑いであれば、異常者を正常者がツッコむことで観客は笑いを誘われる。そこで生じる笑いはじぶんが正常側であることの安心でもある。異常者は正常者につっこまれることで異常的行動がリセットされ、正常世界においてネタが進行する。お笑いという舞台でさえ、ネタという虚構上でさえ、異常者は異常者のままではいられない。その彼は、そこにNOを突きつける。異常者が異常者のままコントを続ける。いや、異常者に寄り添うことによってコントが続けられる。観客=正常者の都合や論理によって(ツッコまれる対象としての)ボケが発言されるのではなく、演じられる人物にとって切実なものとしてたんに言葉が発せられる。一見虚言や妄言にも思える異常的発言を異常的と思いながらも、否定としてのツッコミを入れることなく、あくまで切実なものととして扱う。こうした態度はつまり狂気に対するやさしさであり、それは権威や体制に扱える代物ではなく、オルタナティブな表現ゆえに可能なものだ。このコントで生じる笑いは決して(権威側であることの確認がもたらす)安心に起因していない。この笑いは妙なおかしさによって支えられている。そして、妙なおかしさに寄り添い、妙なおかしさが笑いとして場に共有されたとき、はたして妙におかしいのはどちらなのかと疑心に駆られる。演じられている虚構上の人物とそれを見ている現実の私、どちらにおかしさが帯びているのだろうか。自らの正常性がゆらぐ。正常と異常が反転する。
 お笑いに対し、このように御託を並べて解釈しようとする態度は、あまり好まれる類のものではないだろう。ましてや舞台上でのネタを観たわけでもなく、たんにカフェで話を聞いただけである。しかし、それでも私はこのように受け止めた。あまりにも切実で、深刻で、誠実なものと受け止めた。受け止めてしまった。誤読であり、誤解であっても構わない。私はそう受け止めてしまったのだ。虚構を演じることによって、現実を覆う虚構性を一息に剥ぎ取るネタを、笑いではなくやさしさとして受け止めてしまったのだ。これもまたひとつの異常性であるのかもしれない。正常者にとってのツッコミの対象でしかないのかもしれない。しかし彼の異常性への寄り添いに心を打たれ、感銘を受ける者は少なくないのではないだろうか。彼のコントに涙を流してしまうひとがきっといるはずだ。現に私がそうなのだ。彼を知ってしまった以上、私は彼の今後の活躍を応援せざるにはいられない。
 外に出て、ひとに会いに行くといいことがあるなと思った。

カテゴリー: 日記