適度に無視しあえる関係性や公共圏を希求する思いをひとに話すことがあるが、いまいちピンときてもらえないことが多い。おそらく「無視」という語が与える印象が強いあまりに、どこかネガティヴなイメージを抱かれてしまうのだろう。たしかに無視されてしまうことや応答の不確実さは「私」から存在意義を剥奪してしまうのかもしれない。しかしそれは、私の存在を強化するために他者に応答を期待すること、応答を求めること、より強い言葉を使えば、応答を強いることに近く、これは相手に責任を付すこととも同義である。期待された責任、求められた責任、強いられた責任に応答しようとするとき、期待された、求められた、強いられたとおりに振る舞うことが求められる。相手の期待に応えるためにはまず前提として期待に沿わなければならない。期待を求める側は期待された反応を得られなければ怒ったり、悲しんだり、残念がったりすることだろう。求められた期待に能動的に応えようとする態度の背景には「意志」の概念への強固な信頼がある。そこにはある主体に対する記号化の暴力、このひとはこうあるべきだという抑圧が働く。
哲学者の國分功一郎は、「意志」の概念は解体するべきだが、「責任」の概念は中動態の議論を経由して新しくつくり直さなければならないという立場から、「帰責性imputabilité」と「責任responsablité」を区別する(参考)。國分によれば、前者は能動態/受動態を前提としており、後者は中動態的なありかたとして解釈が可能だという。ここで例にあげられるのは「善きサマリア人のたとえ」である。半殺しにあったひとが倒れている、それを見て気の毒に思ったサマリア人が助けて、宿代も出して……という場面。ここでは目の前で起こっている酷い事態から、助けなければと思ってしまう姿勢が自然と現れる。目撃した状況のほうから私に応答させてしまうという中動的な態度こそが、ひとが責任を果たしていると呼ぶべきものである。これを踏まえるに、私が「無視」によって言い表そうとしていることは、つまり「応答可能性」によってかかわりが生まれる関係性や公共圏と言い換えることができるようにも思う。ある固有の主体(他者)に対し関係における責任を強いて、かかわりあう固有の主体同士が互いにとっての固有のイメージによって姿を限定するようなコミュニケーションではなく、ある主体がなんらかの状況を前につい反応してしまう、なんらかの状況によってつい「私」が現れてしまう、そうした応答によって成立する関係はいかにして構築可能なのか。
私がたびたび例にあげるのは、ツイッターでなにかを募るツイートをする行為である。たとえば「こんばんは。ひまです。だれか通話しましょう。」とツイートをする。特定の誰かを誘うのではなくただタイムラインに投下する。おそらくこのツイートを見かけたひとは、私に興味がなければ何事もなく無視するだろう。興味があってもさほど交流がなければやはり無視するだろうし、仲のよいひとでもタイミングが合わない場合や仲がよくてタイミングも問題ないがそういう気分でない場合も無視するだろう。なんとなくそのときたまたま手が空いていて、私と話ができる程度の距離の間柄で、私と話をする程度のエネルギーがあるひとだけが、軽い調子でリプライをくれたり電話をかけてくれたりする。この一連には、個別に「通話しましょう」とメッセージを送り、その宛先にはい/いいえの回答を強いる場合とはあきらかに異なる性質のやりとりが発生している。もちろん「通話しましょう」と連絡を受け取った側はそれを無視することも可能だが、あとにでも「忙しくて返信できなかった」などと詫びを入れなければ、こんどは「既読スルー」と揶揄されることになる。この「既読スルー」ははたしてほんとうに責められるような行いなのだろうか。いや、一対一のコミュニケーションにおいてはそうなのかもしれないが、少なくとも公共圏においては既読だけして反応はしないということは重要なはずである。なぜなら、あらゆるひとの言動に逐一反応を示すことは私たちが有限の存在である以上、たんに不可能だからだ。公共の場においてはまず無視が前提にある。そしてこの無視が前提にある場から特定の相手との交流に移行し、また無視の場に戻ることを繰り返す場があると、なにかおもしろいような気がする。あるいはそうした場として、私はツイッターを捉えていたような気がする。他人との接触が忌避されるこのご時世においては、そうした場として機能することも少なくなってしまったが。
先日東浩紀が行っていた配信のアーカイブを見ると、コンビニやファミレス、ファストフード店から見る公共圏、あるいは東アジアにおける屋台的な公共圏というアイデアを話していて、とても納得があり、示唆が得られた。日常的に訪れる近所のスーパーやコンビニでは、客は店員の顔を覚えるし、逆もまた然りである。しかし、その顔馴染みの相手に対していちいち親密なコミュニケーションを取ろうとはしない。客は粛々と買い物をするし、店員は粛々とレジ対応をする。顔馴染みでありながら無関心を装うことによって、毎日の買い物が快適に行われる。仮にいちいち会話などしようものなら、私だったらかえって鬱陶しく思うし、べつの店に変えようとすら思うかもしれない。しかし他方で、たとえば決済方法などは覚えられていて、無関心を装いながらも、店員は準備をしていたりする。私も事務的に「支払いはiDで」と毎回伝えるが、慣れた店員であればそう伝える直前からすでにレジの決済方法の画面を選択している。喫煙者であれば、購入する煙草の銘柄を伝えるときなどに同様の経験があるのではないだろうか。
また、べつの側面から見れば、コンビニやファミレス、ファストフード店は代替可能である。セブンイレブンのおにぎりはどの店舗で買ってもセブンイレブンのおにぎりだし、マクドナルドのテリヤキバーガーはどの店舗で買ってもマクドナルドのテリヤキバーガーだ。その代替可能性は関係に緊張感を生む。あるファミリーマートをよく訪れる客もその店でなにか不快な思いをしたら、向かいのローソンに乗り換えてしまうかもしれない。緊張関係がサービスの質を担保する。そういえば昨日、Discordで「知り合いにはものを頼みやすいが、その親密さは枷にもなる」という旨の書き込みを見た。親密さは「せっかく頼んで受け取ったものだから最後まで使わなくては」といったしがらみをも生じさせる。このしがらみは上記でいうところの帰責性に因っているだろう。似通ったところでは東浩紀も「関係者を客に招待しても、知り合いに招待してもらっている以上は客は褒めることしかできない」と話していた。とりわけ制作行為おいては、演者と観客が緊張関係にあることは守られる必要がある。
コンビニなどから見てとれる公共性は、公共であることと私的であること、一般であることと固有であることの中間に位置している。私がいうところの「適度に無視しあえる関係や場」も理念的にはそれに近く、話をしたときの共感性の低さに比べて一定の普遍性はあるように思う。いまいち指示されないのは、ただ私の論の組み立てが悪いというだけのことかもしれない。
日記210331
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