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日記210401

 昨年の九月からとある非営利団体に契約社員として雇われている。三月三十一日までだった雇用契約が更新され、今日からまた新たに一年間雇われることになった。上司との面談の場で、昇給のタイミングである七月に社員として働いてもらいたいと考えている、と伝えられた。ありがたいとは思いつつも、体調が不安定なのでまともに働くことには懸念がある、ととりあえずは伝えるに留めた。
 一般的な考え方に則れば、正規雇用、つまり無期間の労働契約を雇用主と交わし、長期的な収入源として労働の場を固めることがひとりの社会人として、自立し、まっとうに暮らしていくための前提となる条件といっても過言ではないだろう。よって、契約社員から社員への昇格を持ちかけられたのであれば、迷わずに、喜んで、その話を受け入れることが自然な反応だ。しかし、世が求める「一般的な人間観」に私自身が該当するかといえば、おそらくそうではない。極度に痩身で体力がなく、週に五日外に出るだけで大きく疲弊するし、それどころか一日を活発に過ごすことすらまともにこなせない。いま現在も勤務中に眠気に襲われ労働に支障が出ている。その勤務中における怠惰を補うほどに事務処理能力に長けているわけでもない。まともに労働に従事した経験がないのだから労働力としては計算にならない。経験不足を補うほどの知恵や教養、もしくは社交性などがあるわけでもない。私がただの落ちこぼれであることは、いまに至るまでのみずからの経歴や実績をみれば一目瞭然だ。どうせ落ちこぼれてしまう、仮に落ちこぼれなくてもどうせ苦しい思いをしてしまう舞台のうえにもう一度あがろうだなんて、いまさら思うはずもない。落ちこぼれには落ちこぼれの生き方がある。ないのかもしれないが、落ちこぼれは落ちこぼれの生き方をみずから模索する必要がある。
 加えて、私は、労働と自己実現とを結びつけるような労働の捉え方に強い抵抗がある。上記した「一般的人間観」とは労働中心的な生き方や人間像のことでもある。たとえば「労働」と「休日」という区分について思うことがある。もはや死後になっている「ワークライフバランス」の考え方を見ても明らかなように、休日は労働再生産の場として設定されている。労働から離れ、趣味をたのしむ機会などを経て心身をリラックスし、整えられた身体でまた労働に励む。労働に従事していない時間は、しょせん労働のためのメンテナンスの時間でしかない。もちろん労働は金を稼ぐ場でしかなく、趣味の時間こそが生きがいだという者もいるだろう。しかし現実としてその生きがいの時間は労働に内包されてしまっている。だから、まず「労働」に対し非労働時間を「休日」と呼ぶことを避けることを提案したい。
 休日とは非労働時間であると書いたことからも察せられるように、「休日」は「労働」に従属する概念である。「ワークライフバランス」でいえば、まず「ワーク」があり、「ワーク」にぶら下がるものとして「ライフ」がある。この主従関係があるからこそ、休日が労働「再」生産として機能してしまう。ただし、まず労働が先にある、というのこと自体は当然のことだ。たとえば、ハンナ・アーレントは『人間の条件』において、人間の活動的生活を「労働/仕事/活動」の三要素に区分する。ここで「労働」とは、ひとの生存にかかわる行為として記される。動物が生存するためには何よりも食事をしなくてはいけない。したがって、生存本能としての食欲を満たすための狩猟採集は労働の最たるものである。現代日本において狩猟採集を営む者は少ないだろうが、社会の分業のよってわかりづらくなってこそいるが、稼いだお金の支出先として、まず家賃があり食費があり光熱費があり……と生存に必要な住居や食料やインフラがあげられることを思えば、労働=お金を稼ぐことの第一目的に「生存」があることはイメージしやすいだろう。労働は生命の必要によって行われる。必要性に身体が奪われてしまうということは、つまりそこに自由はないということでもある。そして非労働時間たる余暇は、労働再生産の場として機能することから、端的に言えば、近代以降の社会はすべてが労働の場でありどこにも自由などないということになる。
 労働=生存に必要な営みがなぜ必要かといえば、そこで得られるものの多くが「消費」の対象だからだ。私たちは生きつづけているあいだ、毎日何らかの飲食物を摂りつづけなければならない。一度食べたものは二度と食べることができないから、食べたあとは食料確保に出かけなくてはならないし、ふたたび得た食料もつぎの食事でなくなってしまう。一度の食事でどれだけ満腹になろうとも、時間が経てば腹は減る。生存から食事を排除することはできない。それゆえに、動物は絶えず食料確保のための労働に従事せねばならない。このように労働と消費は無限の循環関係にある。しかし、ただ生存本能に従って消費を繰り返すだけでは動物と同じである。人間が人間として(取り立てて掲げるような「人間」という姿があるとして)振る舞おうとする場合には、アーレントがいうところの「活動的生活」が必要だ。これは、言い換えれば、(動物的生存本能から離れて)人間がいかに自由でいられるか、という話でもある。自由でいるためには生存に不必要な営みが求められる。そこで「仕事」や「活動」という要素があがってくるわけだがこのあたりの話は一旦於くとする。(一点だけ注釈を入れると、ここでいう「仕事」は「ものをつくる営み」のことを指し、よりわかりやすく言い換えるならば「制作」と呼ぶほうがいいだろう。つくられたものは一度の使用で消費されず世界に耐久するという点で、「労働」と「仕事」は大きく異なる。また「仕事=制作」と「活動」は、つまるところ「芸術」と「政治」の話だと捉えることが可能だ。ようするにアーレントの「仕事」は現代日本における就労行為としての「仕事」とは意味合いが異なることをおさえておきたい。)
 私がここで強調したいのは、「労働」が主に置かれている以上、従たる「休日」では自由でいられないということだ。私たちが休むべきはほんとうに「労働」なのだろうか。
 私の考えでは、まず土台として「労働」がある。労働がなければ生存することができない。しかし、この労働は「私」を立ち上がらせるものとしては機能しない。労働はあくまで動物的本能を満たす場でしかないのだから。したがって、労働という土台があるうえで、ようやく「私」が立ち上がる準備が整う。そして「私」を立ち上げるものとして「制作」や「活動」が議論される。これを「休日」に焦点をあてながら捉えると次のように言えはしないだろうか。労働が中心にあって非労働時間として休日があるのではなく、一方に動物としての労働があって他方に人間としての制作や活動がある、ひとりの人間としての「私」を立ち上げるのは後者であり、ゆえに私が労働をしているあいだ私は「私」であることを休んでいる、したがって労働時間こそが休日であるのだと。もちろん、現代における職業のありかたは多様で、すべての労働が生存のみに寄与する行いであるなどということはない。むしろさまざまな業務のなかに、労働的な要素、制作的な要素、活動的な要素が混在していることだろう。よって、単純な整理こそできないが、しかしそれでもなお、人間の活動の中心に仕事=労働があり、仕事=労働こそが自己を形づくるという考え方にははっきりと否定を示したい。労働は必要だから行うことでそれ以上でもそれ以下でもない。生存したうえで「私」が立ち上がる必要があり、「私」を立ち上げるのは必要から離れた場であり、不必要なことをするためには消費サイクルから抜け出る一歩が求められる。消費サイクルから抜け出るための一歩を踏み出すためには、労働以上の負荷をみずからの身体に強いなければならない。それゆえに労働的要素の割合が高い場では効率化や省力化が求められる。業務効率を向上させようとするのはいっそう働いて業務成績をあげるためではなく、業務負担を軽減させ、労働以外の場、つまり制作や活動の場から与えられる負荷をより強めていくためだ。
 たとえばこうして毎日日記を書く。日記をいくら書いたところで私の腹は満たされない。日記の記述は不必要な行為だ。しかし、日記を書くことで私は私の考えを広げたり、私自身を知ったりする。私の限界を知り、私の限界を超えようとする。私にとって文を書くことは重要な営みである。だから、労働の負担が増えて日記が書けなくなるようでは困る。労働の負担の増加に応じていくら給料が増えようとも、私にとって書く行為は、あるいは書くための時間や労力が残されていることはぜったいに守られなければならない。このような思いとその背景は、抽象的な議論をする機会のない職場のひとたちに伝えることはとてもむずかしい。職場だけでない。ひとはごくふつうに労働がない日を「休日」と呼ぶし、就労の営みを「労働」ではなく「仕事」と呼ぶし、初対面のひとなどに(対象を規定しようとする質問として)「お仕事は何をなさっていますか?」と尋ねたりする。その一般的な文脈に抵抗しようとすることの無謀さ、あるいは幼稚さははっきりいってひとびとから受け入れられるものではないはずだ。それでも私は抵抗しなくてはならない。なぜなら、私はすでに落ちこぼれているのであり、抵抗をやめたところでまた落ちこぼれるしかないのだから。落ちこぼれには落ちこぼれの生き方があるのだと、落ちこぼれらしく愚かな夢をみて、愚かなままに手探りをつづけることでようやく、私は私にわずかな期待を抱くことができる。

カテゴリー: 日記