先週の土曜日に勤務を行った代わりにきょうは労働がなかった。順番が回ってきている交換日記を書かなくてはと思い、マクドナルドでパソコンを開いて文章をつくった。平日午前中のマクドナルドは空いていた。交換日記を書くにあたり、前回に自分が書いた日記以降に書かれた日記の文章を大量に引用しながら書くという試みをした。筆者ではない誰かが書いた言葉が引用されて、しかも目に見える形で大量に引用されて書かれた文章は、書く主体、書かれた主体、読まれた主体、読む主体をいかに立ち上げるのだろうか。引用によって(書く行為を相対化しながら)言葉を配置すること、また、引用によって他者を組み込むことを念頭に置かれた言語表現の手法は、現代詩を中心にたびたび見受けられる。いうまでもなく私もその手法を明確に模倣しており、第一に手法自体が引用であるのだが、真似をしてみて気づいたことがいくつかある。
まず、思っていることを書くために言葉を自らの身体から出力する行為と、他人によってすでに出力された言葉のなかからフレーズを探す行為とでは頭や身体の使い方、また言葉の現れ方がまったく異なる。書かれた文章からほしい言葉を探すとき、言葉は具体的なオブジェクトとして眼前に現れる。文章を書くことはそもそもがある構造を組み立てる行為に近いが、その組み立てるという意識がより一層強くなる感覚があった。イメージとしてはレゴブロックで遊ぶ行為に近く、無造作に積まれたブロックの山からほしいパーツを探り当てるように言葉を扱う経験はじぶんにとっては新しかった。自然物としての意識で言語を扱うと言ったらよいだろうか。とにかく言葉の扱い方を変えることで、言葉そのものの輪郭も変え、身体と言葉の運動神経にいつもと異なる刺激を与えることができる。あるいは、身体と言葉のあいだにいつもと異なる運動の回路を開発することができる。こうした身体的拡張を見据えた実験的な制作の場は機会としてあまり持てないが、持続的に行うことで気づける発見も多いように思う。
他方で、その言葉を他者が書いた事実と、他者が書いた言葉を編集するという視点をもつ表現主体が同一平面上に並列されることを、書き手あるいは読み手がいかに認識しうるかという根底的な問いについては不透明な部分が多い。その原因としては、ひとつは私なりの編集の方法論を見出せていない点がある。方法論を見出せていないということは、言い換えればじぶんなりの仮説を設定しきれていないということでもある。あらゆる文章は、たとえば一週間前に書いた文章と今日書いた文章とが同時的に並べられるという、時間的歪みをはらんでいる。その断絶を紙面という支持体と主体が所有する身体や名前の連続性によってつなぎとめようとする。ここに他者の身体、他者の名前が介入するしてくることについて、いままでそれを意識した経験がなかったためにまだまだ思考が浅い。また、実作上の課題として、他者が書いたということの輪郭をどれだけ残すことが望ましいのかもかなり不明だ。文脈から切り離しすぎると個性を無化する暴力となるし、かといって元の形を残し過ぎても引用して編集する意義が失われる。他者の言葉によって私は立ち上がっていると示そうとするときに、他者はどのように、どの程度、私の描出の由来を担っているのだろうか。それを意識的に操作しようとしたときにどこが罠で、どこがタブーで、どこが肝なのか、まったく焦点を当てられていない。しかしこうしたことは実際にやって身体をもって体感してみないと理解度が深まらない。あまり恐れずにもっと試行と検討の循環を回す必要があるように思う。機会があればの話だが。
いずれにしても、ひとが書いた文章を切り分けて再配置して……という身勝手とも捉えられる文章制作に対して、元の文章を書いたひとたちが好意的に受け取ってくれたことがなによりうれしかった。身近にひとがいて、反応をしてもらえる場はありがたい。こうした経験を身をもって知ると、多くの文化は制作と反応を絶えず往還させられるコミュニティによって育まれてきているのだろうなと強く思う。おもしろかったら褒めればいいし、やりすぎたら叱ればいいし、退屈だったら批判をすればいい。受け手の反応を経て、つまり受け手の介入によってまたつぎの制作が行われる。それは健全なことだと思う。制作と批評を健全に交わせる場や関係がたくさんあるといい。
日記210402
カテゴリー: 日記