入浴中に日記を書くことが多い。湯の温もりで緊張のほどけた身体で指を動かし、気の抜けたあたまのなかに現れた言葉を出力している。それは額から滲みだす汗にも似ていて、ほほをつたうように文は連なっている。デトックスとしての作文というものがあってもいいのかもしれない。
風呂にはいつもバスソルトを入れている。クナイプなどの香りがついたものではなく、入浴用のヒマラヤ岩塩一キロを毎月買って使用している。ほんとうにヒマラヤの岩塩なのかは知らないし、ヒマラヤの岩塩だったとして非ヒマラヤ岩塩と比べてなにか入浴効果が変わるのかも知らない。興味がないから調べようとも思わない。だけど、塩であることは間違いなく、浸透圧で汗が出やすくなることも使用した感触として確からしく感じる。その岩塩を昨晩の入浴で使い切ってしまい、すぐにAmazonで注文したが、今日は届かなかった。ただの湯に浸かっている。ただの湯のなかでこの日記は書かれている。湯があたたかいからただの湯でも汗は流れるし、おかげで塩の効果が若干あやしくも思えてくる。
Amazonで買いものをするとき、つい古本を一冊か二冊ほどカートに追加してしまう。そしてそのまま注文してしまう。部屋には未読の本が溜まり、クレジットの支払額もかさんでいく。この買い物が近所のドラッグストアで済んでいたのならついでに本を買うことはなかったはずだ。Amazonのない世界では、じぶんも貯金ができていたかもしれない。しかし、ドラッグストアで買いものをしていたならば、今度は余計なお菓子やジュースやお酒などを買ってしまう可能性もある。お菓子やジュースやお酒などを買う代わりに本を買っていると思えば、前者に比べて後者は耐久性があり、長期的にためになるものだから、消耗品を買うついでに本が買えてしまう環境をむしろ積極的に肯定していくべきであるようにも思う。インスタントコーヒーを買いに立ち寄った近所のスーパーで、目に入った歌舞伎揚げをかごへと放り込んだことの言い訳はあとで考えよう。でも、歌舞伎揚げより柿の種のほうがよかったかもしれない。いっそのことコーラも買えばよかった。ドデカミンでもいい。ほかに買い忘れたものはなかっただろうか。以前からR.ローティの著作を買おうと思ってずっと買っていない、一昨日行った古本屋にあったのに。武富健治『鈴木先生』を全巻まとめ買いしようと思って注文カートに入れたところでやめにしたのは何日前だったか。買おうと思ったものほど買わなかったり、買おうと思っていないものほど買ったりする。なにが自分の手元にきて、手元にあり続けるのか、これはもう最終的にはその時々の気分だとか偶然だとかに委ねるしかない。
日記210405
カテゴリー: 日記