笹塚で都営新宿線に乗り換える。普段よりひとが多く、座席も埋まっている。シートの前に立ち、吊り輪につかまる。新宿で、ななめ前に座っていた男のひとが降車して、隣に立っていた女のひとが入れ替わりで着座する。女のひとが、座った直後に足をすこし前に出したので、爪先がぶつかった。驚いた表情で「すみません」と謝られ、会釈を返す。容姿がやけにきれいなひとで、この春からの新入社員を思わせるスーツとどこか辺りをきょろきょろしているような動作の馴染まなさも手伝って、そのひとに注意を惹きつけられてしまい、読書が疎かになる。意識的に読書に集中しようとする。他人の見た目に対し、直感的かつ感情的に何らかを判断するような、主に美醜に関する思いがよぎってしまったとき、その判断の如何を問わず、同時に罪の意識が伴う。ひとの肉体を記号的に処理してしまうことや一方的な欲望の視線を向けてしまうことの暴力性、もしくは、性欲に由来する暴力的挙動が反射的に現れてしまう自身の身体への嫌悪や不信感、また、相対的に浮き彫りになる自らのみすぼらしい容姿に対する恥辱。その他。理性をもって倫理的であろうとする態度と理性的態度から乖離していく身体。私が他者に向ける視線と私が私に向ける視線。それらが相反しながらも一点において同時的に発生する混沌とした状態に、憎しみや腹立たしさを感じる。いまなんとなく気になるこのひとは、どちらかが電車を降りればもう会うことがなく、その刹那にのみ、わずかな安心を覚える。
電車のなかにはしらないひとがたくさんいる。その一度きりしか見かけず、どこか別の場所で遭遇したりしていたりするのかもしれないが、互いを認識することはなく、その意味において一度も見かけることのないひとたちがたくさんいる。他方で、出勤時に乗る電車では、ほぼ毎朝見かけるようなひともいる。ただ、ほぼ毎朝見かけるようなひとも、その時間の、その場所以外で偶然すれ違えば、きっと気づくことはないように思う。乗る電車を一本遅らせたり、乗る車両をひとつとなりに変えたりするだけで、もう二度と会うことのない、会っても気づくことのないひとたちが、朝の駅のホームや車内に集っている。ひとと会うことやひとを覚えることの条件には、なにが必要なのだろうか。ひとのなにを見て、なにを覚えて、なにをそのひととしているのか、よく不思議に思う。
昨年、下高井戸へ映画を観に行ったとき、観る予定だった作品の監督を駅前で見かけた。好きな映画監督だったから顔を覚えてこそいたが、そのとき相手はマスクとサングラスを着用していて、連日会うような親しい友人であればとにかく、何度か一方的に顔を眺めたことがあるひとを、ほとんど顔が隠れた状態でもそのひとだと判断できてしまえたことに驚いた。一般には、顔や目から受け取る印象は大きいと思われているが、実はもっと広く、抽象的なレベル、もしかしたら不可視の領域で、他人や他人の身体を認識しているのかもしれない。
数日前に、真空メロウというバンドの「空っぽワンダー」という曲をひさしぶりに聴いてから、頭のなかを反復して離れない。この曲が収録された『魔9』というCDを立川のディスクユニオンで買ったことを、なぜか覚えている。