労働をおえて、電車に乗る。ふたつとなりに、手話で談笑する二人組がいる。横目には見えないが、こぼれる笑い声と俊敏に動く腕に伴って衣服が擦れる音が絶えず聞こえてきて、たのしそうな気配が感じられる。声や音だけでなく、手話を担う身体運動から発生する空気の振動が、周囲に波及しているようでもいて、会話の外側にいながら、こちらまでどこか気分がよくなるような安らぎがある。手話を交わすふたりを除けば、じぶんも含めて車内にいるひとたちはみなほとんど身体をじっとさせている。せいぜい電車の揺れにあわせてふらつく程度で、基本的には姿勢を維持しながら、眠っていたり、スマートフォンでネットをしていたり、本を読んでいたりする。そんな環境だから、動きこそちいさいが、友人との愉快な会話に興ずるなかで行われる発話行為が醸すダイナミックな情動が、余計に印象的だった。
言語と身体に対する関心が主にある。いつからどうして関心をもったのかは覚えていないが、日常的に言葉を用いて生活していながら、文章を読むときにあきらかに文を読めていない感覚があったり、同様に、文章を書くときにあきらかに文章を書けていない感覚があったりすることの不可解さや不可思議さを気になりだしたことは、ひとつの要素としてあるように思う。一方では言葉と身体のそれぞれに対して個別の事象として興味を持ちながら、他方で、書くことや読むことを通じて得た「言葉をうまく扱えず理解もまったく及んでいない、にもかかわらず、ごく自然に言葉を用いている(ように振る舞う)私の身体」への疑問、また、記号と肉体という一見相容れないかのような両者がいかにかかわっているのか(手話の例をみれば、むしろ記号と身体とは同値的でもあることは明白だ)、その両者のいかなるかかわりあいのなかで私たちは生活を営んでいるのか、という問いが、じぶんが今後向き合いつづけるべき大きな主題としてなぜか掲げられてしまっている。あるいは、言語と肉体によって象られる「私」という存在が、いかなる性質をもっているのかについて、つい目を奪われてしまう。言語と肉体に立脚しながら捉える主体観は、私(の身体)という原因と私(の行動)という結果が単一で直線的に結びついたような現代一般的に扱われている主体観とは、大きく異なるように思う。ポスト構造主義以降の現代思想の議論を見れば、「私」の不確かさに対する一定の共通理解はなされているようだが、それはあくまで現代思想の域を越えてはなく、私たちが普段身をおく社会においては、私はどうしようもなく私であることを強いられてしまう。一方では断絶的な経験を統括する記号として「私」が機能していながら、他方では連続的であることを強制する記号として「私」が機能してしまうことがある。後者を退けるために前者を、つまり私が同一の私でいられずに済むように「私」について考えようという、内なる意欲に、この頃は意識的でいる。ひとりの人間が所有するたったひとつの肉体と、複数の身体が侵入することで機能を有する記号とに、もうしばらく頭を抱えつづけていたい。