電車でとなりにいた、この春からの大学生と思しき二人組が談笑をしている。話のなかに共通の友人と思しき人物が登場して、その友人の名前はナオヤくんだという。かくいう私も、戸籍上は「ナオヤ」という(読みの)名が登録されていて、十代の頃までは周囲の同級生などから「ナオヤ」と呼ばれていた。いま付き合いのあるひとたちはもっぱらネットで知り合ったひとだから、名を呼ばれるとすれば、「むーさん」だとか「むーくん」だとか、「むぅむぅさん」だとか「むぅむぅくん」だとか、敬称なしで「むぅむぅ」だとか、まあだいたいはそんな感じだ。人間らしい名前から離れて久しい。サブカルチャーの批評家にさやわかさんという方がいるが、さやわかさんが出演するトークイベントを見ると対談相手から「さやわかさん」と自然に呼ばれていて、それをいつもなんとなくいいなと思っていた。「むぅむぅ」という個人の名前としてはあまりに腑抜けた名前で名指されることは、人間らしさから逃れることを許されているような、かつ、名前のキャラ化によって、しかも記号化される以前のキャラとして現実に風変わりな層を重ねているような、そんな感覚がありおもしろく、気分的にも悪くない。ツイッターを主とするインターネット上での言動から仮構され、発見される「むぅむぅ」なる主体は、私自身がおもしろがりながら鑑賞できる対象でもある。
ちなみにネットを介さない相手の場合は「ムトウさん」か「ムトウくん」と呼ばれる。したがって「ナオヤ」で名指される機会は、ここ数年ではメイド喫茶で「ナオヤ」と名乗ってしまったときの一回くらいしか心当たりはなく、要するにこの名が使用される場はほとんどない。しかし、「ナオヤ」が形骸化した現状でありながら、近くで「ナオヤくん」と連呼するひとたちがいるとやはりそちらに注意を引かれてしまうことに、当たり前と驚きが混在したような居心地の悪さを感じた。そして、妙に親しみのある「ナオヤ」を聞き流しながら、今後も引きつづき「ナオヤ」と呼ばれる機会からは遠ざかる一方なのだろうと思った。こうして表明すると冷やかしで呼ぶひとが現れそうでもあるが、じぶんとしても「ナオヤ」で呼ばれることにはもう抵抗があるし、呼ばれたらやめてくれと制止してしまいそうな予感もする。親しみの態度として、ファーストネームで呼ぶことを好むひとも一般には多いのだろうが、私自身はそれもあまり好きな風潮ではない。たんなる記号といってしまえばそれまでで、べつにこだわることでもないとは思うが、ある主体が対象をいかに名指すかは、その主体が対象をどのような姿として現前化しようとしているかということでもあり、いかに対象がまなざされているかということの現れでもある。そのような過程によって私を経由して見つめられた私の姿や、その距離を、私が引き受けられたり引き受けられなかったりすることは、日常でよく見られることである気もする。
府中に着いて、グミが食べたいと思い、おかしのまちおかに寄った。ペタグーというグミのメロンソーダ味を買った。数年前は、コンビニに行けばおかし売り場でも群を抜いてグミのコーナーが充実していたが、いつからかグミの新商品が出るペースは遅くなり、グミ売り場もしばらく寂しげな光景が続いている。グミの情勢が落ち着いたこのご時世において、わりとあたらしめに出た商品のなかでもペタグーはヒット作といってよいだろう。グミが盛り上がっていた当時はとりわけハード系のグミが強い存在感を発揮していたが、ペタグーはその名のとおりぺたんとしていてひらべったく、その食感はかつてのグミブームでは見られなかったものだ。味もいくつか種類が出ているようで、たぶん売れ行きもそれなりなのだと思う。ピュレグミやタフグミもおいしいが、それだけではつまらないから、こうした新勢力が着々と地位を得ようする様子が見受けられると、グミ好きとしてはうれしいかぎりだ。