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日記210430

 予約注文していた佐川恭一『舞踏会』が届く。冒頭の「愛の様式」を読む。一人称の語りは、括弧書きによる文への補足や、職場の後輩・神木が石原慎太郎『太陽の季節』を引用した場面での《しかもその一部を──ここに記述するに当たっては、実際に神木が発した言葉の微妙なぶれを修正し原文どおりとしてはいるが──ほとんど完璧に暗唱してしまったということだ》という箇所などから、語り手の手記であることが察せられる。それにより、作中では、語り手の周辺にいるさまざまな人物が登場し、誰もが過剰に語る場面をもつのだが、このいずれもが現に交わされた会話ではなく、語り手によって想起され書き起こされたものとして読むことになる。周辺人物の語りが過剰さを伴って想起されている点からは、内面化した他者が繰り返される内省によって膨れ上がり誇大化してしまっているような印象を受け、その圧迫的・抑圧的な(内なる)他者の存在に囲まれていることは、語り手の窮屈な人柄や暮らしをも象徴している。そしてその窮屈さがこの手記を生み出していて、書き出されることによってまた抑圧が誇大化する、という内省の悪しきループがそのまま小説として顕現しているかのようでもある。こうした語り手の特性は、語り手の母による「お前は昔からそうだよ、なんでもかんでも自分が被害者、自分が正しくて相手が間違ってる(中略)みたいな被害者面」という発言や入念な下調べのうえで風俗店に訪れるが店の前になって怖気付くという挙動、匿名掲示板でのレスバトルで圧勝していた過去などからも見てとれる。安全な立ち位置から俯瞰的に物事を観察し、それらしい論理を見出して己を正当化する術に長けているが、基本的には奥手であるからなんらかを主張することなど到底できず、勝手に軋轢を感じとってしまうような人物なのだろう。登場人物の多さのわりには視野の狭い鬱屈とした語りに読めたことはこうした点に因るのだと思う。(また、奥手な人物と内面化した他者との葛藤については、『受賞第一作』を代表に同作者による他作品のいくつかにも通ずるように思う。)
 作中人物によって書かれた文章という二層構造がもたらす狭く鬱屈とした視界は、しかし終盤に仲違いしていた語り手の妻によって開かれ、その瞬間からはたんに語り手の心中として文が記され(ているように読め)るという展開が起こる。それはあたかもグザヴィエ・ドラン『Mommy』におけるアスペクト比が1:1から16:9に拡張するシーンを彷彿とさせるような開放感があり、ひじょうに驚かされた。読みながら連想した『Mommy』については、作中人物がメディア(アスペクト比という映像のメタ情報)に接触することで開放感が演出されたが、「愛の様式」では自己のなかで無限ループするメタ思考の象徴としての「記述」が切断されることで開放感が生まれていて、つまり視点の階層を上がるか下がるかという違いがある。しかしながら、こうした演出によって立ちあらわれるある語り手内での人格の移行が、こうもシームレスに、かつ、感動的に記述されている点にたいへんな感動を覚え、いやそれは作品への感動を由来するある一点でしかなく、小説の魅力について語る言葉や観察眼が洗練されていない私にはこれ以上を書き記すことができないのだが、とにかくつまるところ「愛の様式」はたいへんな傑作であった。

カテゴリー: 日記