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日記210501

 早朝に昨日の日記を書く。佐川恭一さんの小説について書き、記事のリンクをツイートすると、佐川さんが引用RTをしてくれた。読んだ小説の感想をネットに書き、それが著者に読まれたような反応があったとき、プロの書き手にじぶんの拙い文章が読まれたことに恥ずかしさを覚える。また、小説をよく読んでもいるはずのプロの作家に対し、じぶんの読みを晒すことにもなる。小説をそれほど読んでいないじぶんの勝手な読みを見て、作家は何を思うのだろうか。みずからの程度を、あきらかに上位の存在に見られることは恐怖を伴う。ましてや作品の作り手である。あなたが書いた小説を読んでわたしはこう思いました、と書いた張本人に(それが結果的にであれ)伝達することは、肝が据わっていなければできることではない。むろん、わたしに肝など据わってはなく、ただのビビりである。しかし小説に対する自身の読み書きのレベルの低さを知りながら、なぜあえて書くのか、それもあえて当人に見つかるように書くのかといえば、本を読んだ感想がいかに見えないかということを、一丁前に同人誌をつくった経験から実感しているからだ。そもそも読むことに時間がかかるだとか、一冊の本に対して述べられることが多分にあって簡潔に記述できないだとか、読むたびに発見される意味があり、読みの層が積み上げられてようやくその本が見えてくるだとか、とりわけSNSとの相性の悪さを指摘するための理由は枚挙にいとまがない。書籍は消費欲求を満たすには都合が悪く、その意味においては読者の反応が見えにくい点は仕方がないというか、むしろそのままであるべきなのかもしれない。では作家が書き、批評家が読み、それを読者が観客として観ているという図式が成立し、保たれていればそれでよいのだろうか。よいかわるいかでいえば、たぶんよいのだと思う。その状態こそ望ましいのではないか。ただ、いまは目立つ批評家は不在であるように見え、それゆえかは知らないが、作家の評価は商業的な部分に依らざるをえない状態にあるということはないか。とするならば、やはり読者は読みの反応を示していくことが求められる。それもたんにSNSでいいねをつけたり、買った本の画像を撮って投稿したり、アマゾンレビューで星をつけたりということではなく、どう読んだか、どう読めたかをきちんと示すことが求められる。そして、どう読んだか、どう読めたかを示すための学びや訓練を日々積むことが求められる。そうでなければ、書籍も瞬間的に消費され、あれよと忘れ去られる存在でしかなくなってしまう。文化が維持され、発展するためには、市井の一読者による応答もきっと必要だ。
 書籍は耐久財である。ゆえに近年のインターネットの速度とは馬が合わない。そこで読者がどんな態度をとるべきか。文学の外側で、一介のお客さんとして小説を読む身としては、小説(あるいは表現文化全体)に対する身の振り方の検討はあって然るべきだ。

カテゴリー: 日記