武者小路実篤の『友情』を読む。
脚本家の野島の恋を描いたこの小説は、野島の親友で作家の大宮と野島の想い人であった杉子の結婚によって無残に失恋するところで終幕する。文庫本の解説には「『友情』は最も健全な恋愛文学である」などと真面目に書かれているが、読んでみるとかなり笑える部分が多く、実際のところはギャグ小説といっても差し支えない。どこが笑えるかといえば、なにより主人公・野島の勝手な思い上がりがあまりに過剰である点に尽きる。結末で明かされるように杉子は野島のことをろくに相手にしていない(傍に一時間以上居たくないとまで言われる)のだが、野島自身は揚々と杉子と結婚することを夢見て、時に結婚生活を妄想する。杉子との結婚によって「自分は精神界の帝王になり、杉子は女王になる。自分の脚本は世界を征服する」とまで考える。この過剰で饒舌な思い上がりはそれだけで笑いを誘い、また次の展開への盛大な振りとしても機能するから余計におもしろい。思い上がっては落ち込み、また思い上がっては落ち込み……を繰り返す野島の言動はいかにも青春と言ってしまえばそうなのだが、一度フリとボケと思ってしまったらもう笑わずにはいられない。元より恋によって周りが見えなくなってしまい、あなたとわたしの存在が誇大化してしまう様子は滑稽さを伴うものであり、とりわけ片思いのさなかにおける一喜一憂とくればなおさらではあるのだが、野島によるそれは脚本家という設定に支えられることでより強烈に描かれる。十分に発達した恋愛はギャグと見分けが付かない。
もちろん笑いだけでなく、たとえば人称に焦点を当てると、一人称に置換可能な三人称で記述される本作は、大宮と杉子の結婚が明かされる終盤で、大宮が同人誌に寄稿した小説の全文引用という形式をとり、主観の移行が行われる。また、この作中小説の内容は、大宮と杉子が密かに交わしていた往復書簡を引き写したものとなっている。つまり終盤では、作中作の一読者となって大宮、杉子が作品世界で実際に書いた手紙から個々に表現主体を立ち上げると同時にそれらを束ねる単一の小説としての表現主体をも立ち上げ、かつその読みは作品世界で同作を読む野島へと接続し、そうして顕現する野島からようやく『友情』の記述者が立ちあらわれる、という主体の多層化が図られる。
こうした側面を読み解こうとすれば、小説ゆえのおもしろさもいくらでも見出せるはずだ。しかしまず直感的に笑える文章であることには違いなく、最後まで楽しみながら読み終えた。
日記210504
カテゴリー: 日記