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日記210506

 図書館へ行くが閉館日だった。京王アートマンという生活雑貨店へ行き、トーチバーナーを探すと、イワタニから出ている商品がひとつ置かれていたが、購入を一旦保留した。ウェルシア薬局へ行き、プロテインを買うか迷った挙句、五〇〇〇円は高いなと思い、買わずに店を出た。何度か外出をしたがどれも空振りで、減給中の身だから余計な買いものせずに済んだことはよかったのかもしれないとは思いつつ、手応えのなさが虚しい。きのうの筋トレの疲労も残っていて、昼寝をしたり、夕寝をしたり、終いには疲れたからだが気だるさをも呼び込んで、どこか気分は晴れない。
 書き始めた小説は一日に四〇〇字程度しか進まない。原因はふたつ。ひとつは作業に集中していないこと。もうひとつはテーマを過度に盛り込もうとしていること。人格、主観性、郷土、酒、災害、天皇──なぜこうなったのか、軽率には扱えない題材を扱おうとしているきらいがある。だが、何かを書こうとすることで、知らないことを知ろうとしたり、考えてこなかったことを考えようとしたり、そうしたことが自分ごととして真に受けざるをえない状況になってしまうことは、制作行為の重要性をそのまま指し示しているようにも思う。
 アーレントは人間の活動的生活を労働、制作、活動の三要素に区分し、多数性や他者性によって規定される「活動」においてようやくそのひとが誰であるかが問題にされる、つまり個人が立ち上がるとした。よって政治的な営みにおいてはこの「活動」が重要視されるのだが、「活動」をするための条件としてまず「制作」が必要ではないか、と私はしばらく言い続けている。アーレントを読み込んでいるわけではないため、アーレント自身の議論において制作から活動へどう接続されているのかはわからない。したがって、あくまで言葉のニュアンスだけを汲み取った話ではあるのだが、制作を経由せずに言論行為に臨んだとして、そこでは凡庸な個人の集合があらわれるだけで、凡庸な政治活動ばかりが目立ってしまうということは昨今のインターネットを見れば明らかだ。では、どうすべきか。たとえば、かつて東浩紀は『日本2.0 思想地図β vol.3』という本を編み、「憲法2.0」と題した章にてゲンロン憲法委員会による「新日本国憲法ゲンロン草案」を提案した。そこでは「天皇」と「総理」という二種の元首を立て、二者で役割を分担することで元首の務め自体を整理したり、現行憲法にはない「住民」という概念を提示し、国籍を有する「国民」と国土に居住する「住民」とで主権者を整理することによって開かれた国家像を解説したりと、憲法がはらむあらゆる問題について大胆な代替案を提示する。それは同時に現行憲法がいかにあるか、いかなる課題を抱えているかをより鮮明にしようともする。つまり、アーレントの話に戻せば、こうして制作の過程で学習、検討、研究され、かつ学習・検討・研究等の(一時的な)結果が制作物として共有されることで、現状がより具体的な姿で顕現し、言論=活動はより活性化するのではないか。制作のために考えるのではなく、何かを考えるために制作をする。あるいは制作行為はつねに思考を要求する。一般に「仕事」とも訳される「制作」が、「労働」といかに異なるかといえば、そうした点にあるのではないか。それゆえに生存の必要(労働)から逃れてものをつくることは人間にとって重要なのではないかと考えている。そしてこの考えもまた、日記を書くことによって要求されたものなのかもしれない。

カテゴリー: 日記