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日記210527

 早起きしようと思ったが眠気がひどく、きょうは労働もないからいいやと思って二度寝をする。ひとを刃物で刺したり刺されそうになって逃げ回ったりする夢を見た。書きかけの小説を進めようと思ってエディタを開くが続きが書けず、参考にならないかと近くにあった小説をぱらぱら読んでいたらまた眠くなってきたから横になったらぐっすり眠ってしまった。目を覚ますと朝から降っていた雨が止んでいたから、切れかけの消耗品を買いに外へ出る。スーパーに寄ったら鶏胸肉が安かった。薄暗い曇り空の下をあちこち歩いて帰宅する。ずっと眠っていたせいもあって一日の終わりを感じるのがはやい。鶏胸肉を弱火で焼くとこんがりといい香り。梅酒を飲みながら小松理虔『新復興論 増補版』を読む。オリジナル版からの第三部までは、抽象的な部分は東浩紀やゲンロンなどの思想や理念に依拠しながら書かれた実践的エッセイという様相だったが、書き下ろしである第四部は小松理虔による論考としての存在感が増していて、しかしその論考はけっして独立して現れているわけではなく、第三部までの記述から読み取れる数々の体験や様々なひとびととの関わりなどを経由したうえで立ち上がっている主張という印象があり、新著ではなく「増補版」として刊行されたことの意味や意義も強く感じられた。生活を営むうえでは、思想家でなくとも思想は必要であり、批評家でなくとも批評性は必要であり、専門家ではないながらにしかし専門家でないからこそのふまじめさをもって人文知に触れながらたのしむように現実をほぐしていくという、一市民としてあって然るべきであるにもかかわらずきっとほとんど共有されていない態度を、いかに整え、いかに保持するのかというひとつの回答が、「増補版」という構造にもあらわれているようにも思う。制作行為の主たる要素を制作の結果ではなく制作の過程に見ようとするのならば、「増補版」のような形式で一度書き上げた本を省みながらそこに追記していくという制作の手法はむろんありうる。商業的にはありえない、というか損にしかならないと思われることでも、制作という営みにおいてはふさわしい場合もある。こうした判断をおろそかにしてはいけないような気がするし、ここがおろそかになってしまうときは労働/消費を中心にしかものを考えられなくなってしまうときなのだろうと思う。そして、そこに批評性はない。ウェザーニュースライブを見続けているせいでろくに本を読んでいないから、一冊の本の最後までたどり着いたのはひさしぶりな気がする。労働に出るくらいの頻度で本を読む習慣や体力があればよいのだが。

カテゴリー: 日記