ウェザーニュースライブで、予報センターの山口さんがキャスターから眼鏡の話題を振られて、長年ずっとおなじ型の眼鏡をかけている、と話をしている。その理由について、仮に眼鏡を変えたとして変化に気づいた誰かに指摘されたときに説明するのが面倒だ、そっとしておいてほしい、からだという。じぶんもおなじ理由で髪を切るのが苦手だから、よくわかる話だと思った。じぶんがそっとしておいてほしいと思うから、ひとの外見の変化に対して何かを指摘することはあまりない。というか外見自体に対して、よほど仲が良かったり、もしくは一風変わったTシャツなどのわかりやすく戯画化され(ることで相手の肉体との関係が遠く離れ)たアイテムについてだったりしないかぎりは、何かを言及することは可能なかぎり避けるよう努めている。むろん、他人の外見についてなんらかの印象を抱くことは多分にあるが、それは口にしない。ただ思うことと、口にすることとのあいだには、大きな乖離がある。思ったことをそのまま口にすることしかできない者はたんに愚かだ。この愚か者めと思いながら無言で無表情でただうなずいてその場を耐えるばかりの日々に気力を削られている。山口さんはキャスターの無茶振りをまじめに応えることによってかわしていて、じぶんもそうやってていねいに対応できたらと思うが、あれは番組として公開されてお客さんの目線がつねにあり続ける場だから可能なのかもしれない。ダメな発言にははっきりダメだと無責任に言える立場がなければ、ダメなやつほど大きな声で暴言や差別的発言を繰り返す。そう考えると、仲がよいとは無責任な批判をしあえる関係性のことであるようにも思う。ずっと以前から、他人から批判されたいと思っている。きっと批判されることでしか気づけないことばかり抱えているから。批判を受けて、批判に対して応答して、じぶんの視界と他人の視界を照らし合わせながら、じぶんの立ち位置を把握したり確認したり納得したり修正したりしたい。ひとは己だけではどこにもいけない。じぶんがこうして文を書いて誰でも読める場所においているのも批判可能性を高めるためだ。可能性を高めてなお批判をしてもらえないのは批判するほどの相手でないと思われているからで、特に誰からも相手にされないじぶんは低俗で未熟な愚か者でしかない。
他人を殴るにも、他人から殴られるにも技術や体力がいる。あらゆる物事の外見にしか言及できないことは技術のなさの現れだ。そしていま自分には技術も体力もない。だからできる範囲で殴り殴られる技術を培う、殴り殴られることが許容される場を見つける。そうやって必死になって日々の雑事をごまかしていく。いま必要なのは隣人にマジレスする文化だ。
日記210601
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