みだりな情動にかき回されるほど私たちは退廃していない。直観的な親しみを好意と錯覚してしまうことの安易さ、無邪気な狂乱を穏やかに繕うなんて馬鹿げた振る舞いはもうしない。それでも愚かなままでいたいのなら、今日の雨にでも一喜一憂していればいい。
眠気に襲われ敗北寸前の状況下でWordをたたく。眠っているのか文書を制作しているのかといえば前者でしかないことは明らかで、意識が戻ってきたときパソコンの画面を見ると、打った覚えがないどころか、いつどのようにどうして喚起されたのか心当たりもない〈隣に立って見ている客〉という文が書かれている。不要だから消去する。覚醒中のかれは睡眠中のかれに対し権威性を有していて、睡眠中のかれはその存在すらも半ば認められていない。整然としたWordファイルを名前をつけて保存。
代々木のアートギャラリーTOHでMES個展「DISTANCE OF RESISTANCE/抵抗の距離」を観る。スペースの片隅には制作ノートと記されたファイルが置かれている。中に綴じられた紙には制作の経緯や過程、モチーフの歴史的背景などが書かれている。本展の台本とも言える書類を片隅に置く一室の、壁には数枚の(レーザーでライティングした街の)写真=制作物が展示され、中央にはある一枚の写真が実際に制作された際の二分程度のドキュメント映像が繰り返し再生されている。この映像は、すなわち実際に上演されたパフォーマンスのアーカイブとして解釈可能だ。レーザーの投射という形を残さないその瞬間かぎりの光景と、そのことによって表象される失われたクラブカルチャーやストリートカルチャーを、それらの痕跡として配置された台本、上演アーカイブ、制作物の三者が再演する。清潔に整備された凪いだ公共空間、ただそこに在り続けては失われた文化の忘却に寄与する傲慢な公共物への抵抗として、複数の記録を並べ、記録の網を舞台にいくつもの語りを交わし、そのことによって文化を、出来事を模倣し、記憶しようとする態度それ自体を見せられているようでもある。
郵便受けにはふたつの郵送物。袋を破って取り出した中古の雑誌をさっそく開き、目当てのページを読む。ひとが死んでも書かれた文章は残るが、参照する者がいなくなればそこに辿り着く者も減る。あるいはいなくなる。言葉と意味の間接性。身体(とそれを包む環境)の経由なくして、言葉は意味を持たない。そうでなくとも、詩の抒情性は詩に内在しているのではなく、詩が身体を喚起することによって生成されている。直線的に情動を愛でたがる素朴な身体への未成熟さとしての信仰心は、不規則な時系列に組み込んで操作可能な対象へと移行させるがいい。そこに働く技術的態度をいかに保持するか、それが問題だ。
日記210615
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