勤務先のトイレでいつもどおりに排泄をしていて、トイレットペーパーの位置や洗浄レバーが右側にあることに気づき、これは右利きの多さに由来した設計なのだろうかと考えた。右利きが多いからと右利きのひとが使いやすい環境を設計することは一見合理的であるが、ではそのとき合理性を損ねる要因とされる左利きのひとの権利はどうなるのか。右利きに都合のよい環境で一生を過ごさなくてはならない左利きのひとが、せめてもの思いで私的空間を左利きに都合のよいように整備したところで、結局公共空間は軒並み右利き優位であることは変わらない。ひとの手なしに自然に成形した空間のように、個人や大衆の都合や利便性を前提せずに環境が構築されるのであれば、右利きの多さに由来する群れの行動原理の結果として何らかの変形こそするであろうが、そのような無意識の振る舞いを反映した現れも含めてあるがままに顕現するだけである。しかし、人工的な空間はひとの意図が介入する。個人や大衆の心理をあらかじめ想定したうえで、なるべく多くのひとたちにとって障壁のない空間をつくろうとする。繰り返すが、多くのひとたちにとって障壁の少ない環境は、そこに該当しない少ない──とはいえ数としてはけっして少なくない──ひとたちにとって障壁となる場合がある。あるいは、障壁となっていることに気づかない場合などが。公共空間が人為的な場所である以上、あるひとにとっての不都合はどうしても生じてしまう。それでもなお、だから公共空間なんてものはない方がよい、とはならない。いまのところはなっていない。公共的なるものは社会やひとびとにとって必要であると、おそらく多くのひとが疑いようもなく考えている。人為的な空間ゆえに生じる人為的な格差を目の前にして、なおだ。
もし左利きの者たちが連帯して声を上げでもすれば、左右どちらの手でも公平に持ちやすいはさみが開発されるかもしれない。駅の自動改札機は左右兼用になるかもしれない。いや実際、これら含めて利き手に対するユニバーサルデザインが施された例はいくつかあるようで、しかしそれは逆説的に、右利き優位社会を左利きで生きることが不利であることを示してもいる。その希少さが優位に働く場合もあるが、一般に生活を送る上では、社会は左利きに苦労を与える。そしてむろんのこと、そのひとが左利きであることは、そのひとの意思のあずかり知らぬ事象であり、そのひとには一切の責任はない。
自然由来の人体と人工由来の社会とを遮る障壁は、いかにして乗り越えが可能なのだろうか。効率や合理性、わかりやすさやコストの少なさ、楽であることや負荷が少ないことを社会が安易に求めると、それは大衆にとって、つまり多数派にとっての利点として働くのだとすれば、そして多数派にとっての有益性がひとの固有性をある一点に収斂させてしまうのだとすれば、人間の多数性や多様な社会の形成を帰結先とした場合には少なくとも、先に列挙した項目に対抗する要素を総じたものとしての複雑さや理解しがたさを果敢に受け入れていくことが求められるはずだ。私にとってわからないものこそを喜び、私にとって共感を抱かせるものこそに疑いの目を向ける。そのための指標をいくつも持ち、絶えず更新する。たとえば文化芸術がひとにもたらす喜びや美しさは、そういったことだったりしないだろうか。
日記210625
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