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日記210730-31

 川又千秋『幻詩狩り』を読んだ。シュルレアリスムを代表する芸術家は自死している場合が珍しくないという事実を題材に、その複数の自死をもたらした共通の原因をフィクションとして描いたSF小説だ。死の原因は、読んだ者に麻薬のような興奮や中毒性、幻覚を与える「詩」にあり、物語終盤には、言葉や文字が持つ複製機能によって被害が広がっていく様子までもが描かれる。本作を読むとおそらく誰もが真っ先に思うだろうことのひとつに「改行の多さ」がある。文中のほとんどが一文ごとに改行されていて、速やかな行の移動は可読性を高くすることは言わずもがなであるが、その過剰に促される眼球の横移動は身体に高揚感を引き起こし、読みの興奮と作中で描かれる詩=ドラッグの効果がリンクしているかのようでもある。改行にどれだけの意図を組み込むか/組み込めるかを考えるとなかなかむずかしく、この頃のじぶんは改行せずにずらずらと書き続けることが多い。
 この二日間、アイマスクをつけて眠ったら、そのおかげかどうかはわからないけど深く眠れているような感覚を得られてよかった。数年前はアイマスクと耳栓を装着して睡眠することを常としていたが、耳栓をなくしたりアイマスクが汚れたり面倒になったりでいつからかやらなくなった。たまに思い出したようにそれらをつけて寝てみるとやはり感覚としては悪くないから、資格や聴覚の刺激をなるべく抑えた状態での睡眠はそれなりの効果があるのだと思う。たとえばこうして話題が変わるタイミングでの改行は、文を読む態度を切り替えさせて、読みやすさやわかりやすさを与えるだろう。その点、改行の意図は明快で、挿入に際してさほど迷いは生じない。
 一方で、一見関連がないような話題でも、改行して段落というまとまりをつくることなく、地続きで書き続けることで、その散漫さや不安定さを抱えたままにしようということも意図できる。
 この頃のじぶんが改行に対して消極的な理由もここにある。
 たとえばこの日記にしても、理路整然としているはずのない自らの生活や言動や思考や周辺の環境などを考慮すると、整えられた文章で書き綴ろうなんて気も起きない。
 それゆえに、だらだらと雑に書かれているほうが日記としての体裁が保てるような感覚がある。
 それに、毎日(ここしばらくはほぼ日状態ではあるが)書こうとするとやはり労力が必要で、その分だけ文や話題を整理することは省力化する流れになる。
 しかしこうして一文ごとに改行をしていると、一文単位でまとまりができるから、こちらの方が散漫さをそのままに書き出せるのかもしれないという気にもなってくる。
 デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』がまさにそんなような小説だった。
 改行によって書き方も変わるような感覚。
 たしかに箇条書きのように日記が書かれてもいい。
 日記を箇条書きで書くか散文で書くかで、その一日の断片的な要素を書き出すか、その一日にナラティブを与えるかという日記に対する態度の差が現れるように思う。
 けれど、そんなことはどうでもいい。
 改行していると前の文のことなんかはどうでもよくなってくる。
 昨日、夢を見た。
 どんな夢だったかは忘れた。
 目を覚ますと外で鳥が鳴いていた。

カテゴリー: 日記