『ちびまる子ちゃん』をマンガやアニメで観続けているこの頃だが、外国人のキャラクターが出てくる回はどれも印象に残るような(言うなれば感傷的な)エピソードである場合が多い。多いと言っても該当するお話は片手で数えられる程度ではあるのだが、たとえば、まる子が南の島へ行き島に住む少女・プサディーと仲良くなるお話は言うまでもないし、まる子がたまちゃんら同級生数名と花輪くんの家に遊びに行く回では、花輪くんの友人であるアメリカ人のマークが(ふだんはアメリカで暮らしている花輪くんの母といっしょに)たまたま花輪邸を来訪していて、まる子たちといっしょに遊ぶ様子が描かれている。また、二〇一五年に上映された『映画ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』もそのタイトルのとおり、ホームステイで清水にやってきた外国人とまる子たちとのドタバタが物語の主である。ここに挙げた三つのエピソードに共通する点として、仲良くなった相手が母国へ帰ってしまうことがもたらす別れが終幕部分で描かれていると、誰でもあきらかに指摘できる。あるいは、いずれのエピソードも別れをもたらす存在、外側からの来訪者の象徴としてのみ「外国(人)」という記号は用いられている。この点について、ある見方においては、観念的・記号的でしかない「外国(人)」という存在が「日本的なもの」の強化のためにしか働いていないのだとして、安易なナショナリズムに収斂する物語やモチーフへの批判が可能であるだろうし、また裏を返せば、家、親子、町内などといった『ちびまる子ちゃん』を支える舞台である保守的な共同体を更新することの困難さを汲み取ることも可能であろう。ただいずれにせよ、何か言及するにあたってはもっとつぶさに観察する必要はある。
ここでは備忘として、『ちびまる子ちゃん』と「外国(人)」におけるとっかかりになりそうな要素を、一点のみ記しておく。いくら物語の時代がいまと異なるとはいえ、たとえばまる子が町内会の福引きの商品を当てなければ外国へ行けなかったこと、またそのことが、旅先で仲良くなった友人と再会できないことをも示していることは、現代においても簡単に見過ごせる点ではないのではないか。学研教育総合研究所が二〇一六年に行った調査では、小学生の八割近くが渡航経験なしと回答した結果が出ているようで、また、観光庁から出された「若者のアウトバウンド活性化に関する最終とりまとめ」内の委員提出資料によれば、十八歳から二九歳で渡航経験のない者は約五一.八パーセントと出ている。かくいう私も、日本国内から出たこともなければ日本語しか話せないというありさまで、「外国(人)」という観念やそこに見出してしまう強烈な他者性はおそらく否定できるものではない。つまり、環境や風景こそ変われど、ある点においては『ちびまる子ちゃん』で描かれる生活の様子はけっして古いものではないのではないか。そして、この『ちびまる子ちゃん』がいまだに国民的アニメとしてお茶の間の届けられ、ともすれば大衆に素朴なナショナリズムを促すとするのならば、『ちびまる子ちゃん』を丁寧に読み解こうとすることもさほど馬鹿げた試みでもない気がする。