コンテンツへスキップ →

日記220101

ベッドのなかの凍えるような冷たさに覚醒を促されながらもその冷たさは同時に身動きを抑制してもい、からだをまるめて耐え忍んでいるうちにまた眠りにふける、そんな朝方がつづくこの頃であるから、先を見越して就寝前に腹部に低音タイプの使い捨てカイロを貼る。カイロの包装には「低音やけどに注意」「就寝時の使用不可」と書かれている。数年前までは事故防止という名目で記された免責としての些細な注意書きには忠実に従っていたように思え、そこにはなんらかの規範を内面化したような振る舞いがあらわれていたようにも感じられる。いつ、何を契機に、規範を内面化すること、それは他者の視線を先取りすることと言い換えてもよいのだが、予防線として自らの思考や言動に制限をかけることを多少なりとも軽視できるようになったのかについて、定かな記憶はない。

他人を忌避し、馬鹿にし、嘲笑することを共通項として用いる以外の協調の手段を知らない、もしくは扱えないひとらがいる。そこで馬鹿にされる対象というのは、同調しない者、気を遣ってくれない者、想定どおりに動いてくれない者、感情的でない者、反対に過剰に感情的である者、ある事象に真面目に応対する者、外部のひとに配慮する者、知識が豊富で多角的に物事を考えようとする者、小難しい論理を並べて物事を相対化しようとする者……いうなれば「私たち」と異なる言動をする「変わってるひと」だ。私はこれまで「変わっている者」として扱われることが多かった。「変わってるね」「変なひとだね」そう指摘され、「変わってるひと」ではない「ふつうの私たち」「多数派の私たち」を確認するための材料とされることが多かった。私は多くのひとらに不快感を与え、不快感を感じたひとらはその不快感を共有することで共同体を強化した。いつも周囲のひとらから馬鹿にされてきた。どうせひとを不快にさせ、馬鹿にされるのだからと、ある集団やある組織にコミットすることを放棄した。不快感を与えることで仲間内のつながりを活性化させる役割を担い、そのコミュニティに貢献していたのだという見方もできるが、他人を侮蔑することでしか関係性を確認できないコミュニティなんて消えてしまったほうがよい。そう思うから、もう少し周りに合わせろだとか、もっとコミュニケーションをとれだとか言われたときには心底うんざりした。いままで自分を馬鹿にしてきたようなひとが、自分ではない誰かを馬鹿にしながらコミュニケーションをとる様子が日常的に見られる組織に同調するとは、つまり私も他人を馬鹿にする側にまわるということだ。過去の自分をも含めた仲間内ではない他人を侮蔑するなどということに、そしてたとえそれが組織の主たる目的に付随する要素であったとしても与するつもりは私にはない。これは金の問題ではなく、ひととしての道理の問題だ。私は金を持っておらず、したがって生活も貧しいが、だからといって道理を欠いた選択をすることはない。道理を犠牲に金銭を得ようと、生活の保障を得ようとは思わない。そのことを見失わないでいたい。

偉そうな文体でごくありふれた普通の内容の文章を書いた。やけに偉そうだが、素朴で、単純で、かつて多くのひとらによって散々言われてきたことを反復しているに過ぎない。しかし、にもかかわらず、この素朴で、単純なことが、各個人の生活上の振る舞いにおいては浸透していないのはなぜだろうか。頭で考えることと文章に書くこととそうした営みによって描かれた観念が現実に達成されることとにはそれぞれ距離がある。それぞれに必要な技術は異なり、考えることが得意な者がかならずしも書くことが得意であるとはかぎらず、書くことが得意な者がかならずしも書いたとおりの振る舞いに及ぶことができるとはかぎらず、道義的に素晴らしい振る舞いを日常的に行う者がかならずしも自らの言動の根源たる精神性を客観的に考えることができるとはかぎらない。

先日、ふとグラタンを食べたいと思った。特別グラタンが好きというわけでもなければ、そもそもグラタンを意識的に食べるということをここ何年もしていない。たまたまコンビニで買ったパンがグラタンコロッケパンだったことはあるが、グラタンが食べたくて買ったのではなく、棚に陳列された他のパンと比較して相対的にその時の気分で食べやすそうだったのがそれだったから買っただけだ。だからグラタンを食べたいと思ったことに唐突さを覚えはしたが、時期柄、グラタン的な料理を売り出す広告を気づかぬうちに目にしていたと考えることは容易であり、また、例年よりも厳しいような気がするこの寒さから温かい料理への渇望を喚起されただろうこともあり、この唐突さにも紐解けばそれなりの理屈づけはきっとできるのだろうとも思った。普段はろくに料理らしい料理もしないから、むろんグラタンもつくったことがない。Googleでグラタンの作り方を検索し、必要な材料が記された箇所をスクリーンショットし、その画像を参考にいかにもこれからグラタンを作りますと言わんばかりの買いものをし、記された行程どおりにグラタンをつくった。が、できあがったのはどちらかといえばホワイトシチューの印象に近いものだった。オーブンを所有していないからオーブンなしでつくるグラタンのレシピを参考にしたのだが、オーブンなしのグラタン自体がグラタンの理念から遠く離れた代物だったのかもしれないという留保がある一方で、グラタンという観念を求めて、グラタンの観念に到達するための文章を見つけ、その文章のとおりに実践したにもかかわらず、現前したのはホワイトシチューだったことの衝撃は、日頃文字だけが記された本ばかり読んでいる身としては何か大きなことに気付かされるような経験だった。

いかにもホワイトシチューめいた名ばかりのグラタンはおいしかった。指示どおりに手を動かせばそれなりにおいしいものがつくれるのかもしれないと思い、別の日に手羽元のコンソメスープをつくった。手羽元と野菜に顆粒のコンソメを加えて煮るだけの行程だったが、いままでやったことがなく、コンソメを買ったのもはじめてだった。できるけれどやっていないこと、やろうと思いすらしていないことは無数にあるのだろうと思う。そうした可能性へと駆り立たせ、現に及ぼうとする意識や身体を支持するような文章の代表的なものとして料理のレシピがあるように感じられた。手を動かしたいと思い、それを参考に実際に動かしてしまうような文章をもっと読めたらよい。あるいは欲をいえば、そうした文章を書けるようになれるのであれば、なおのことよいだろうと思う。

カテゴリー: 日記