静かに過ぎる一日。身体を動かそうとジョギングに出るが、思った以上に走れなかった。約五分。足が重く、息が上がる。身体の衰えを自覚する。日々の暮らしの中で、運動は必要不可欠なものではなくなり、意識的に取り組まなければならないものへと変わった。技術の発展によりあらゆる労力が省かれ便利になった世界。その代償として身体を駆使する機会は失われ、肉体は徐々に衰えていく。便利さに包まれながらかえって不安定な心を抱え、生存のためではなく失われた感覚を取り戻すために身体に負荷をかける。身体と精神の均衡を取り戻すための営み。それは何かが転倒しているように思える。
昨日、多摩霊園を歩いた。並ぶ無数の墓石。そのほとんどは名前というかたちを持ちながらも、私にとっては単なる文字列に過ぎない。しかしいくつかの名だけが何かを想起させる。その名前を知っているからか。その人物の業績を知っているからか。そうした認知を経て私の中にその名前が埋め込まれているからか。名前は記憶を呼び起こし、また記憶に埋め込まれるものだ。個人の生の痕跡が石に刻まれるとき、それはただの識別ではなく記憶の発火装置となる。そこにいるはずのない存在をそこに立ち上げる仕掛けとして機能する。
文字列が記憶を生み、物語を生成する。それは小説の読書体験とも重なる。文字を目で追い、そこに描かれる世界が自然と広がることもあれば、意味が捉えきれず物語が立ち上がらないこともある。その差はどこから生まれるのか。文字を読んでいるのに、そこに何も見出せない瞬間がある。名前を見ても何も感じない墓石のように。だが、たとえば役者が戯曲を演じるということは、意味を理解せずとも声を発し身体を動かすという経験をもって言葉を立ち上げようとする営みと理解ができるのではないか。テキストは具体的な発話と動作を介して世界に生成される。読むことと演じること。その間には、身体を媒介とした異なる作用がある。
久しぶりに牛乳を飲んだ。思いのほかおいしかった。静かな午後、窓の外の雲が流れていく。身体を動かし、記憶を巡り、言葉を考え、ただ時間が過ぎていく。