動き出す体にかすかな疼きが宿る。筋肉の奥深く、まるで忘れられていた記憶が目を覚ますような痛み。それは衰えたものが再び活気を取り戻そうとする抵抗のようでもあるし、失った時間の名残を振り払う一種の証でもある。正座から跳ねる、あるいは重りを携えて地を押し返す、その単純な行為が、日常の平板さをわずかに揺らしている。
部屋という限られた空間で、身体は壁に向かい、床を押し、天井を見上げる。ブリッジの弧は重力に挑む弾力を持ち、逆立ちの静止は、上下の感覚をあやふやにする。動作の連続は、目的を持たないがゆえに自由だ。労働の時間とは異なる、ただの身体の営みとしての動き。その中で、筋肉と骨が互いに語り合うような感覚が蘇る。
運動の合間、プロフェッショナルの仕事を見つめる。無感性を自覚する者が選ぶ、自らの無意識を乗り越えようとする行為――ゴミを拾い、コーヒーを淹れ、車を磨く。その細やかな反復の中で、人は社会において微かな痕跡を残そうとする。単なる習慣が持つ残酷な美しさに、自分の身体が呼応するのを感じる。触れた筋肉は固さを失い、指先に宿る熱が少しだけ心を動かす。
夕暮れ時、湯気が立ち上る鍋の中にささみや春菊を沈める。出汁の香りが空間を満たし、やがてうどんが締めくくる。食卓の余韻に耳を澄ませると、日々の運動とともに、何かが少しずつ形を変えようとしているのを感じる。自己の輪郭が、動きと静止の境界でわずかに揺らぐ。
生きていることの確認。触れる手の温度、筋肉が語る痛み、そして目を瞑ることで訪れる休息。その一つ一つが、生活のモチベーションを拾い上げ、薄暗いところでそっと光を灯している。
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